元気は元の氣。  私たちは愉氣せざるを得ないように生まれている。


明日いらっしゃる方々のための準備が一段落。

今、ひとり閑かにここにいる。

そう言えば、一昨日もこの日記に向かった。

今、行われている【氣道の学校】のことについて書いたのであった。

そして、以前もそうしていたように、
その進行状況についてのご報告までも書き添えていたのだった。

送信しようとした時に電話が鳴り、
その電話をとるためにはコンセントを抜かなくてはいけなく、
するとコンピューターの電源も落ちてしまうことにも気づかず、

そんなわけで、その膨大な文章は、
また遥か虚空にいったわけである。


その文章でも、
【氣道の学校】の面白さをいろいろに語ったが、

今感ずるに、
それ以上の、というかそれ以外の面白さを感ずる。

虚空に消えた文章や、
今まで色々なところで書いたり語っていたことは、
受講生にとっての面白さであったと思うのだが、

今申し上げたい面白さは、
私自身の個人的な面白さである。

そんなことを、ここに書くのはどうかと思ったのであるが。

ここは、
この前も、
「人の日記だから読まないよう」
と書いたのであるが、
一応は、
(ほんとうに一応なのであるが)
盗み読みする人もまあいるだろう、
という思いで書いている。

そのため、
今日はこれを書きたいと思っていても、
書けないことがあったり、
あるいは逆に、
この日記に向かうと、
つらつらと筆が(指が)運ぶ、ということがほんとうに多かった。

このところは、時間も無く、
この日記に向かうこと自体が珍しくなってしまったが、

(そう、
 自然掲示板(http://8003.teacup.com/joho1/bbs)
 にもほとんど向かえていない。
 残った情報が飛んでしまったこともあるのだが…)


今日は、瞑想と共に、
明日の準備もひとつ終え、
そして、また明日いらっしゃる方々への思いと共にあるという時であるので、
一昨日、虚空に消えた文章を思いだし、
ここに向かった次第である。

向かったのであるが、
何も書くことはない。

否、何でも書ける。
テーマさえ与えてくれれば、何でも書ける。

たとえば…
と考えてみたが、
何でも書けるので、かえってテーマを選べなくなった。

この閑かな時のまま、
ただ過ごしていたい。

それでも虚空に消えた文章を思い、
【氣道の学校】について語るとなると、

…ということで呟きが饒舌になっているが、
あえて書きたいと選ぶなら、
(それもそんな要求はないのであるが)
自分自身の【氣道の学校】についての面白さであろうか。


私は、常々いろいろなところで、
【氣道の学校】が、いちばん行っていて楽しい講座である、
と書いたり言ったりしている。

それは、何より、自分の本源に戻れるからだ。
瞑想という、
いのちそのもの、
純粋意識そのものに戻れるからという意味だけではない。

それなら、自分で瞑想をすればいい。

ちょうど一人で自動運動を行うのではない醍醐味が二人組の自動運動(相互運動)にあるのと同じだろうか。

でも、それだけではない。
それだったら、二人で瞑想すればいい。

それだけでなく、
そうした瞑想や自動運動を行う時に訪れる空間の変化が楽しいのだろう。

すると、自分が本源に戻れるのであるが、
その本源に戻る過程の中で、

純粋意識にまでいかなくとも、
いえ、感じつつも、
さまざまな発見があるのである。

たとえば今回の場合、
一日目の夜、二日目の途中までかなり抱えていたものが浮上し、
(それは他の方々のエネルギーとの相互関係であるが)
かなりしんどい状況ではあったのであるが、
それでも、本来の自分(純粋意識、タオ)はあり、
そして影響にせよ、
思考や感情で作られている自分の部分というものを、
明確に分離しながら感じることができた。
それはまるで幽体離脱しはじめた時、あるいは戻っても馴染まない時の分離感とも、
ある意味、相似象であろう。

また、関わりのない会員の方々が変化するのも面白かった。

結局、すべては自分が捉えている以上、
いえ、そうでなくとも影響し合っている以上、
すべては自分なのだろう。

それが【氣道の学校】を行っているだけで変っていく。

もちろん、【氣道の学校】の時以外も変っていくことは、
瞑想その他を通して、日々感じているのだが、
【氣道の学校】の変化力、クリーニング力は凄い、
としか言えない体験は、今回初めてであった。

(何度も言うが、参加者にとっての影響力ではなく、
 それが他に及ぼす影響力という意味である。)

おそらくは、
どらえもんの霊(エネルギー体)が存在するように、
【氣道の学校】という確かな存在があり、
それがこの十数年の間に育っているのだろう。

そうとしか思えないほどの体験をした。
 
他にも、様々な気づき、発見をし、
それはちょうど即興演奏のライブがそうであるように、
その時々の、今に則したいのちの歌、舞いをするように、
今回もまた受講生の皆さん、そして心を寄せてくれている方々、
あるいは寄せてもいないが関係あるすべての方々
と共に、
その時、その樣に作られていく
いのちの調べだからこそなのだと思う。


いつも思うのは、
お産婆さんとしての醍醐味が味わえる、
というのが、【氣道の学校】を行う楽しみである。

相手の潛在意識というか、魂というか、
それが望んでいるものを出産させる、
いえ、出産させたいものを、
自然に出産させる準備だけ援助する。

それは氣道での整体(個人指導)と同じである。

それが、もっと身体レベルだけでなく、
アストラルそしてコーザル(メンタル)レベルという変化を誘えるということである。

その理由は、連日での集中講座であること、
しかも、
少人数限定の個人指導が日々ずっと行われている時間であること、
が理由として挙げられよう。


───個人的な【氣道の学校】の面白さ。
 まだまだあるが、今宵はここまでにしよう。

 明日は最終日。
 皆さん、ほんとうに素晴らしい。

 これを読まれた方(盗み読みした方)、

 どうぞ、横浜道場に心寄せてくださいませ。

 何か変化するものがあるかもしれません。

 (心寄せてって?
  …という方は、思い浮かべるだけでOK。
  横浜道場にいらした事のない方は、何となく空想するだけでOK。
  私のことを知っている方は、私のことを感じてくれるだけでOK。
  すると、人によっては私の息が分かるだろう。
  その息に合わせてくれればうれしい。
  私もまた特に【氣道の学校】の最中は、
  自分の息が個人の息では無くなっていくことが多い。
  (演奏中、個人指導中、自分が無く、単なる媒介者であるという感覚になってしまう事があるが、
   それを講座中にも、そしてその期間中ずっと感ずるのが【氣道の学校】なのである。)
  単なる長谷川淨潤という下らない人間の息に合わせることは全く薦めない!
  (そんなのはカルトである。しかしほんとうの事を見た人に対しての場合少し異なるのであろうが。)
  ただ、心寄せるという事は「息を合わせる」という事であるという事を言いたく書いた。
  私という長谷川淨潤の存在に息を合わせるを通しても、この期間中はいいけれども、
  (書いていてはばったくなっている。そんなのは強制とか薦めることでなく、
   好きな人は自然に行っていることなのだから。
   なので、意味のない文章である!!)
  それよりも、私を通してその背後の息、
  月を指さす指を通して、月自体を見るつもりで、活用していって頂けたらと思う。
  
  (そう、それこそ、この日記の活用方法だと思う。
   大抵の盗み読み読者は、
   「ああ、また淨潤が馬鹿なことを…」
   と思ってくれてはいるだろうが、
   「淨潤先生…その息に合わせたい」
   などと思う変な人がいたら、多いに勘違いであるので。
   何度も書くが、合わせようと思っていたら、もう分離がある。
   そして、合わせたくなった時は、すでに合っている。
   ただ、それでも
   合わせたくなった時には合わせよう。
   元より人は氣(タオ、純粋意識)そのもの。
   それを元気と言う。
   ただ、瞑想したくなったら、自動運動したくなったら…
   その時はしよう。)



さて、また明日いらっしゃる方々にも愉氣したくなった。
今宵はここまで。

【氣道の学校】という
この一粒の種が、何かに響きますように。
この一粒の種を創ってくれた流れに感謝しつつ。
そして、
そうした流れがあり、その流れ沿う醍醐味と、
その流れにも一粒の種が卷ける力を与えて下さった事に感謝しつつ。
そして、
それさえも越える沈黙と共にあれる喜びを味わいつつ。


それでも私は愉氣をする 2

 
(つづき)
 
怒りや理論では人は動かせない、愛のみが伝わる、
───という言葉はほんとうの事だ、と馬齢を重ねて思うようになった。
しかし時には怒ることも必要であろう。
何でもよしよしという腑抜けた態度では相手のためにもなるまい。
しかし、たとえ怒るにせよ、その人を愛しているからこそその怒りが出るのかという点が大事なポイントだろう。
怒る時こそ、その人への愛を確かめられている。
 
しかし、私が言っているのは愛のみが伝わるから愉氣するという意味ではない。
伝わらなくともいい。
ただただ、ただただ愛(愉氣)す。
 
また、氣道で言うように、すべての事象は自分が捉えている以上、すべては私の反映であるから愛さなくてはならない、という意味でもない。
ただ愛す。
ただ愉氣する。
理屈ではない。
また正しい事かどうかも分からない。
なので、人に薦めたいことではまったくない。
(そのため、この項を日記ブログに掲載するには数年の間があった。
 しかし、私をして、ただ愛し愉氣するのと同様に、止むに止まれず今日投稿したくなった次第である。)
これは単に私の性分に過ぎない。
故に偉そうなことでは全くない。
性分に過ぎないが、しかしどんな事があっても愉氣する人がひとり位この世界にいてもいいのではないか。
 
 
何かのために愉氣をするのではない。
相手のためでもなく、
自分のためでもなく、
何のためでもなく、
ただただ愉氣する。
この身尽くるまで、たとえどのような事があっても。

師走、近況

氣道設立20周年。

記念祭にいらした方々には、この場を借りて感謝申し上げます。
 
そして今、
20周年ということもあり、私の気合いは、年末年始の 【氣道の学校】 に向かっている。
これ以上楽しい学校、コースは他にないだろう。

それでも私は愉氣をする

 
───ブログにて糾弾される方々の事を守りたく書いた事で、
かえってその方々から非難誹謗を受けた事もある。
言えば言うほど勘違いをされ、誤解は解けず。
哀しさのみが募る。
 
───たった一人の方のため、いつになくキッチリと整体の準備を整える。
正座瞑目し待つ事4時間。
しかし現れず、連絡するがどこかに外出しているよう。
約束を忘れていたのか、きっと体を整える事よりも大事な事がその方にはあるのだろう。
哀しみが募るが人の整体に対する理解はそんなのものなのかもしれない。
 
───以前いた組織にて衆目の中、言われもない事で怒号された事が何度かあった。
私がした事ではないのに信じてもらえぬ事が繰り返される事、己れのせいと思えぬほど辛かった。
 
───芸能人ならぬ私にまさか剃刀入りの封筒が来るとは思わなかった。
その後、横浜道場に来て、警察が現れるまで木刀を振り回し、障子も柵も破れていた。
 
 
生きていれば様々な事がある。
しかし上記の例は、すべて私の整体を受けている方であり、それだけでなく良き理解者の方ばかりである。
それでも理不尽な思いをする事は避けられないのであろう。
 
ここに掲げた例はその中でもごくごく一部である。
あまりに哀しく、人が信じられなくなってしまいそうになる事もあった。
怒り心頭に達し、相手を許せぬ思いに陥りそうになった事もあった。
虚無感から呆然とただ一晩中川辺に佇んでいた事も一度となくあった。
 
しかしそれでも私は愉氣をする。
ただただ無心に、否、相手を慈しみ愉氣をする。

 
生きていれば様々な事がある。
死にたくなる事もある。
殺したくなる事もあるだろう。
しかし、それでも私はこの生尽くる限界まで愉氣をする。
たとえ、どのような事があったにせよ。
 

常に

 
このままで完璧だ。
 
私たちは完璧な世の中にいつも常に住んでいる。
 
私たちが、今、ここそのものを創るものと一つである限り。
 
 

★この日記の「視用上の注意」について

 

1、これは日記である。
   (故に人の日記を覗き見してはいけない。)
 
2、日記の作者について。
   (ハンドルネーム長谷川淨潤と云う一氣道家である。)
 
  ※注1/氣道家とは、氣道とかいう自然に生きる道(訳分からぬ)を歩まんとする更に訳分からない人たちの事を指すらしい。
  ※注2/自然に生きると元々の元気、つまり健康が現れるらしひ。
      だから元々人は健康らしく、それには動物にあやかって余分な観念をとっていくといいらしい。
      その上で、思考や観念の有効活用も行うのが人間にとっての自然なのだそうな。
      ともかく健康と自然とは同義語らしい。
      ついでに云うと、美も善もそうらしいが、だったらついでに蛙とか鋸とか糞もそうしたらいい。
      で、健康が理想的に現れた状態は元の氣である純粋意識とかタオ、神、愛に戻るわけだから悟りと同じらしい。
      (そんなことよりも、どうして十代や二十台の若さに戻ろうとしないのだろうか…)
 
  ※注3/ともかく、そのために何を薦めているかというと、
      自動運動とか愉氣とか瞑想とかいう聞くだけでなく見るともっと怪しい健康法で、
      しかも健康法や修養法は必要なくなるためにこそ存在する、などと訳分からぬことをいう。      
      
      悟りまで掲げておきながら、生活は自由らしく、
      身心の要求に合っているものはいつも「快」を感じるといい、
      その快を感ずる要求自体が間違っていることを是正するために健康法など紹介しているらしいが、
      酒も女、男も博打もOKと公言するどころか、
      煙草をふかし、法律こそ守るが道徳は無視してもいい、とも云う。
      天衣無縫どころか言語道断の考えであろう。
      

3、日記の内容について。
   (上記の理由により、この日記がほぼ出鱈目である事は間違いなく、
    なのになぜ書いているかは、おそらくそうした自暴義な生き方を無意識的に反省し贖罪行為として偉そうに書いているか、
    あるいは、統合失調症と見せぬための統合失調を作って重ねて書いているか、    
    そのどちらかだけであろう。)

 
───以上、この日記を読む健全な読者諸兄に、
 ご注意をひとことまで。
 

【整体法修得一年コース】終える

 
【整体法修得一年コース】が今日終えた。

打上げの場での皆さんの感想も感慨深かった。

「途中で本当に止めようと思った」
という方もいらっしゃった。
「10年以上前とは違っているのに驚いた。」
「日々のストレスがこの場に来て一時間も経つと拭われるのが毎回なのが不思議だった。」

その他、様々な感想があったが、
そのそれぞれ別のように感ぜられる感想が、
皆さん口を揃えて言う
「回を追うごとになぜか楽に楽しくなってきて。」
という今までにない言葉が興味深かった。

「今回はまるで【氣道の学校】(心の学校)のようでした」
とある方が言っていたが、確かにそうかもしれない。

(ほんとうにとっておきの幸せのメソッドも、
 公開してしまった)


さて、私はこれから年末の【氣道の学校】の為の最終準備を行っていく。
内観法がテーマの今回であるが、
囚われずにできる限りの誘導、援助をしていきたい。

そういう訳で、
相も変わらず忙しい日々は続くが、
【氣道の学校】(【心の学校】)は私の最も好きな時間。
(興味のある方はぜひどうぞ)

そのためにも顔晴りたい。
書きためた日記もあるので、
時間をぬってここにまた顔を出せるかもしれない。


【整体法修得一年コース】にご出席の方々、
この場を借りて、心から御礼申し上げます。

この9ヶ月が一つの種まきになったら、これに優るうれしさはありません。

師走の整体

 12月といえば、クリスマスと新年を迎えての大掃除。
 クリスマスはともかく、この大掃除というのが実に体を整えるのです。

生きてて良かった

 
昨日は氣道創立20周年記念祭でした。

いらして下さった方々、ほんとうに有り難うございました。

そして、残念ながらいらっしゃれなかった方々からも、様々なエールを有形無形のかたちで戴きました。

心から感謝申し上げます。

当日には、
ある時には司会者のマイクをとってまで、
この20年間の総集編として、様々な事を台本なく勝手に言わせて戴いてしまいました。

今、感ずれば、その和やかさ、その静寂…
まるで、(いい意味での)
お通夜のやふだったのかもしれません。

そして、ご参加された方々にとっても、少しでもそう感じて戴けたら嬉しく思っています。

「生きてて良かった」
と、ある参加者が仰ってくださいました。
「それは、どこで…」
と、つい聞いてしまったのですが、
「先生の最初のお話も良かったのですが、三人での演奏、
 青木先生と先生とのデュオ、そして…」
…と仰っていました。
 
(そのお言葉を伺い、
 当日の録画、録音を皆さまに提供できたらと思っているのですが、
 そう、残しておきたいものに限ってハプニングがあるように、
 今回は、多くの部分の録音がゲーテ座のミスで出来なかったのでした。
 幸い、他の方も録音されているようですので、
 販売の暁には、ホームページのトップでご紹介したく思っています。)

ともかく、何よりうれしい言葉を戴き、
恐縮、そしてほんとうにうれしく思っています。


そして今日、
そうした言葉を励みにしつつ、
新たな生を受け、
そして、ほんとうに今までの自分の整体と違った事にも驚きつつ、
今後も、皆さまへの某かのご援助のために励んでおります。

(芦屋にて、明日の講座(呼吸法講座)や指導の準備をしつつ)





満月

 
 20日(土)、素晴らしい月であった。
 まるで満月のよう。

 単に日本人の美意識ではなく、満月よりも一日前を美しく、
そして満月と捉えてしまう私にとって、
 翌日の月はまたぽっかりとしたそして月である事をそのままの月であった。

 今日、大好きなKさんが指導にいらっしゃった。
 (ちなみに私は指導に継続的にいらっしゃる方はなぜか大好きになるので勘違い無きよう)
 「先生…今日は元気ないですねー」
 「いやぁ、朝の「自動運動(&舞踏)コース」の演奏で草臥れたのですヨ。
  (注/「自動運動(&舞踏)コース」は、氣道、横浜道場の最先端を、
      この一年間突っ走っているコース。
      指導、芝崎●●)
 でも、Kさんには元気を存分に与えますヨ。」

…結果、与えられたのかどうかは分からない。
否、むしろ、最後には、透明な瞑想を共有したかった。

 「先生、期待していますよ。」
 「何が?」
 「今度の土曜日ですよ!」
 「20周年?」
 「そんなこと言っては駄目ですよ。
  日記、見ていますよ!
  先生、やる気じゃないですか。。」
 「ええっ? あの土下座の日記も?」
 「もちろんですよ。」
 「●●●」
 「今日の先生、面白ーい。
  とにかく、期待していますからね。」
 
 「に、20周年記念祭は、ただ音楽を聞くだけなのですよ。
  しかも、私の演奏はフリージャズで、聞きにくい。
  皆さんには、
  『おくつろぎのために音楽だけの記念祭にしました』
  …とは言っているものの、
  ほんとうは、こういう機会にフリージャズの酷さを、味わあせようと。
  いえいえ、
  しかし、まあ、ドリンクもつかないんだよねぇ。
  と、ところで、私の演奏は聞いたことがあるの?」

 「ありますよ!」
 「そ、そうか。
  だったら、ご、御愁傷様なのだが…」
 「先生!
  楽しみにしてまーす!」

───と、高校生のように言われてしまった今日。

 
ここで、この日記を見る方々に言いたい!

 ただ、くだらないお喋り(私)が30分くらいあって、
 そのあとは、音楽だけの記念祭。

 どうか、どうか、
 期待しないように。
 
 ただただ、休まる(フリージャズなので休まらん!か?)だけの記念祭。

 しかし、きっと、何か、殊勝な方は、
 そこから得るものもあるの「かも」しれない。

 幸せの種を巻きたい、なぞ、昨日は書いたが、撤回!

 これで幸せにならなかったら、オラ知らんヌぞ!
 (ただし、幸せになるのが即日ではないかもしらぬ)

 くだらないお喋りと、雑音を楽しめる。
 それに堪えられる方には、
 そのこと、
 キッパリと断言できる。

 あなたは「幸せ」になれます、と。

 (ぜひ、あなたの幸せ度を確かめにいらして欲しい。
  違うか…  (←この言葉は、恩師、成瀬雅春先生の口癖) )

 
  今の予約では、たった30人の記念祭。
   
当日ちょっと秘訣も公開しよう。
     (おっと、Kさん、そんなことはない。
      ただただ、くだらない音楽だけの記念祭でございます。)


 
ほんとうは、この20周年に向けて、何かかっこよい言葉を書きたかったのであるが、
 こんなノリになってしまったのは、すべてKさんのせいにしよう。

 Kさんへ 
   明日の朝寝のあとは、音楽をね!
   サブリミナルCD(今は買えないんだヨ。新しいのを作る。拙演でね。)
   に愉氣したので、また試してね。でも、依存にならないよう。


 
 Kさんの次の次に受けられていた方も、Kさん同様、古くからの方。
 「今日の体は、この前と違って特定の方に憤りは無いよ」
 「でも、苦労はたえないっす」
 ───そういう彼も、年を聞けば35才。
 「えっ? もう20年以上だね。」
 「中学一年からですから… 」
 「あのときは楽しかったねぇ」
 ───という心理療法家としてはしてはいけない過去の評価をする理由もある。

 ほんとうに実感そうだからだ。
 そして、それが今の体に現れ、そのように、
 さらに導かれるからだ。

 而して、思えば20数年。
 中学の時の彼と、毎朝、ヨーガを下北沢の辺りで行っていたこと。
 昨日のやふだ。
 
「最近、時間があれば、空の写真をとっています。」
「そうなんだ。
 実は、私も昨日、実は、川べりに歩きながら空と共にいたよ。
 大きな雲があってね…」
「とどまらない、ということがいいんです。そして広い。」
「ほんとうにそうだね…
 そして、とどまらないうしろは、いつも動かないんだよね。」
「絶句」
 (ここで、空(ソラ)と人間の心は同じということを言う必要のあるほど、
  彼は整体を知らない者ではない。)


 
 満月は、満天の時よりも、その前後がいい。
 今日も演奏させて戴いた。(「自動運動コース)
 而して、ほんとうの満月は上記ではな、く翌日(月)であったのを知ったのは昨日であった。


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