淨潤日記 「日日是好日」

氣道協会代表・長谷川淨潤のブログです。

 七夕会

もうすぐ七夕会
 (7/7、17時17分〜19時17分。
  委しくはスタッフブログhttp://kido-staff.jugem.jp/?eid=86まで)

なぜだかとてもうれしい。
例年だと、淡々と七夕会当日を迎えるのだが何故なのだろうか。
昨年の七夕会が、20年間行ってきた総まとめのように、美しき終焉を迎えたような感じになったからだろうか。
(氣道における夢(願い)の実現の真意が伝わった感じが、
 皆さんの願いを書いた短冊の「軽さ」と共に、
 とてもとても閑かで美しいひとときが流れていた。
 きっと昨年ご参加の方、短冊を送ってくださった方の夢は叶ったことだろう。)

そして、その上で、新たな生をもって七夕会が再生したのだろう。
すべてのものに命がある。
それは物だけでなく、想いや時も同様。
もちろん講座もまた然り。
私が何もしなくとも、七夕会という生命がそれ自体育まれていくのだろう。
その再生、育みの不思議さをして、
私をしてうれしき感じを、講座前から覚えさせてくれるのかもしれない。

おそらく明日いらした方、短冊を送ってくださった方の願い(夢)は叶うだろう。
そうした自然さからして、昨年以上に、そう「意識では」願ってもいない事まで叶うことだろう、と今朝思っていた。
しかし、そうしたことは自動運動の目的が、野口晴哉師が無である、と言ったように、そしてオマケとして自然治癒力の発揚、健康度の向上が得られるように、
七夕会にとっても夢(願い)の実現はオマケに過ぎないのだろう。
而して氣道の視点で言えば七夕会の目的も自動運動の目的と同じなのである。
ただ大きなオマケが違うだけ。

オマケを望んでもそれは得られにくいのは、グリコのオマケ同様。
ただ、七夕会は、オマケを望んで道場にいらっしゃったり、あるいは短冊を送ってくださったりした方々に、
如何にして、オマケ「をも」得られるかを、言葉のみならず氣(=エネルギー)としても、分かち合ってゆく。
(そのあり方は当会の存在理由と同様だ。
 即ち、身心の健康を求めて氣道協会にいらっしゃるが、
 結果として身心の健康以上のものを得てゆく。
 そのとき、健康は既に実現しているかの如くに。)

夢に対して恬淡としてご参加されるのもよし、
逼迫した渇望をもって参加されるのもよし。
それらの想いを、純化させ、私たちの真の願いに還元させてくれること。
それが、特に今回の七夕会を通して、自然に運ばれていく、ということ、
その自然な流れが
「ただ在る」ということ、
そうしたことが私をして「うれしい」と感じさせられる一番の理由なのだろう。

瞑想〜援助

 いつも言うように瞑想は、常に在る。
それ故、瞑想は顕れるものであって、作り出すものでものではない。

顕すには、思考(感情も含め)を鎮めること。
鎮まり難い人は、ただそのままに流心法をしてもいいし、同じ意味で自動運動もいい。
元より静まり難い者は、その堅固なエゴ(=観念)を拭うために、体の声を聞き、氣道のメソッドを活用するのもよい。
体が整うと自ずと瞑想が顕れるのも事実だからだ。

そしてそこに顕れた瞑想に気づけば、ただそれと共にいること。

瞑想は、空であり、沈黙であり、純粋意識であり、現存であり、「いのち」であり、愛であり、神であり、タオであり、
故に、遍く存在する「氣」であり、「自然」である。

氣の道は其の自然に生くる道である。
故に、敢て道を求める求道者になってはいけない。
私たちは実際に歩む歩道者にならねばならぬ。
而して、この道は自らの後ろに出来る道であり、その意では道無き道である。
因って氣の道を伝える者は、同義である沈黙なる愛を、
ただ愉「氣」し、
そうして相手(の身心、即ち身心)に沿って、言葉、整圧、等々を運んで行かん。

(※なお、この日記や会報、書籍その他の私の文章やCD、DVDで申し上げた事について、
  質問やご意見がある方は、
  講座内(氣道会、整体法講座、等々)あるいは打上げの席にて、
  質疑応答の時間を作っておりますので、ぜひご活用下さい。)

 今日は、「氣道会」であった。
 (内容は、いくつか前のこの日記で書いたように沖縄〜東京(人形町)の特別講座と同じもの。そして7月末には関西でも同内容の特別講座を行う。)

 氣道会で必ず言うフレーズの一つに、
「こうして話している事も、私の観念(考え)に過ぎません。ですので、正しいかどうかは分かりません。正しい正しくないというのは、ある基準があって定まる相対的なものです。戦争の時は人を殺すことが正しかったのです。 基準が変われば正しさも変ってしまう。
 ただ私は今日お話しした観念で生きていて、自分自身が楽だった、楽しかった、あるいは会員の方々がそうであったということにすぎません。」
 …というものがあります。

そう。
インドの教えによらずとも、凡てが観念なのです。
実際のところ、自分の目や耳でこの世界を捉えている以上、自分というフィルターつまり観念を通して感じているわけですから、私たちは自分の観念の中で、世界を捉え、そして反応しているわけです。
私が「整体の可能性」というインタビュー文章の中で、『すべて一人相撲である』というのは、そういう理由によります。
そう、観念の中で、まるで映画の主人公の如く演じているのです。映画を作っている気持ちになりながら…

私という自我が無くなった時、ほんとうの私つまり氣道で言う「氣」「宇宙の息」、タオ、純粋意識、いのち、神に至った時には、観念は払拭されていますから、一人相撲からも開放されているのでしょう。
もちろんその時には、正しいも正しくないもありません。
相対世界ではない一者の世界なのですから。

この日記の題名である「罪」についても同様でしょう。
昨年、私が罪についてある方にメールをしたところ、その返信メールでこんな一節がありました。
「恵比寿さまも「この世に罪などないわいなぁ〜。振り子の法則をよく読んでみなはれ〜」と仰っていますよ。」 
振り子の法則とは、私も【氣道の学校】(中等=【心の学校】)にて、紹介することのある本で、お金に関することの一部とエネルギーワークを除いて、その凡ての概念を取り入れて【氣道の学校】を行っていた程共感する本です。
そして確かに、その方の仰る通りなのです。

正しい正しくない、いい悪い、という「正否」同様、罪もある基準や観念によって作られるのです。
先にも書いたように、戦争の時は、人を殺めるのが正であり、もちろん罪にはなりません。
その基準は、その時々の道徳、倫理、常識、法律、規範、戒律、その他もろもろのものによって定められるわけです。
そして、もちろんそれ自体が観念でありますから、それが正しいかどうかは分かりません。
基準だけでなく、観念も同様です。
その人自身の観念によって罪と捉えるわけです。
いわゆる罪の意識というものです。

戦争の時であっても、人を殺めて罪の「意識」を持つ方もいるわけです。
現在でも泥棒が認められている国はありますが、その国の中でも罪の「意識」を持つ方もいるでしょう。
これは個人の観念であります。

観念は、自我から発生します。
ステファン・ボディアンの言葉を借りれば、分離された自己から発生します。
即ち、私たちが正否、あるいは罪などの認識をする事、分かるというのは文字通り、分けるという言葉から作られていますが、そうしたことは、分離された自己、自我、エゴから発生するわけです。
けれども、それはそれこそ良い悪いではなく人間の宿命と言ってもいいでしょう。

そして自我、分離された自己の状態は体に反映されています。
罪という観念感覚を持つ時は、頸椎3、4番の左倒れ、胸椎3、4番の過敏、7番弛緩、8番左、腰椎2番左、頭部第四弛緩でかつ重心が左に傾いています。
実際のところ、そうした体状況になった時しか、人は罪の意識、罪悪感を持てないのです。

私たちは、一者である「氣」から生まれてきました。
そして、そこに死んで還っていくのでしょう。
そうして、こうして生きている今も、その偏在する「氣」、タオ、いのち、瞑想はずっと在るのです。
夜、眠ると還るように。

そこから生まれ、思考を持ち、即ち、一者から分離された自己、自我を持つと、様々な分断をしてゆくわけです。
私はそれこそ 「罪」だも思うのです。
それが、私をしてキリスト教のいう「原罪」という真意ではないか、ということは以前にも、この日記で書きました。
しかし、それは「氣」、いのち、純粋意識、タオ、神、という一者から分離したことを罪と定義しているわけであり、またそれは私自身の感覚的解釈であり、上で言っている意味とは異なります。
ただ、それも私の観念であります。

先に振り子の法則やインドの概念を紹介しました。
次いでに紹介しますと、インド発祥の私も大好きなヴェーダの聖典であるバガヴァッド・ギーターの冒頭で主クリシュナの言葉が言っている言葉です。
 「あなたは、どんな罪を犯す事も出来ないし、称賛に値する行為を行う事も出来ない。」
そして、
 「あなたの原初の理解は無知によって曇らされている。
 そのせいで、あなたは物事を功罪でしか見ないのである。」
と続くのです。

(実は、この引用に落ちもあります。
 …というのは、この冒頭は聖クリシュナの言葉でありますが、最後の部分では、
 「私に明け渡しなさい。そうすれば、自分が犯してしまったと考えざるを得ない凡ての罪から、お前を救ってあげよう。」
 となるのです。
 この最後の部分を、多くの方々は勘違いするわけです。
 罪が無いと言っておきながら、罪があるということはどういうことか。
 一元の世界を唱えるヴェーダの中でも、罪とか正しいとかいう相対的なそのような事があるのか、と一瞬はその矛盾に苦しむのでしょうが、その後、それは必要なのだろうと、勘違いをするわけです。
 そのため、
 時系列的には逆ですが、仏陀が死んで500年経ってから様々な教典が出来たように、ヴェーダにも様々な解釈が生まれるのです。

 野口晴哉先生は、自動運動(活元運動)の目的を無と断言しました。
 而して、同時に先生は健康法として紹介をされていました。
 そして先生の健康の概念は他の方や常識とはまた異なったものでした。
 健康法とは必要無くなるためにこそ存在する、とは私の常套句でありますが、そのくらいに自動運動をも捉えていたのでしょう。
 一元に至るために二元、相対の論理でのワークや健康法、儀式を行うのは、鏡を見て、鏡にお化粧をしているのに似ていると思うのは私だけでしょうか。
 否、鏡を壊して、私は大丈夫と思う姿に見えるのは私だけでしょうか。
 そうして、無限の求道と依存が生まれるのです。

 而して、先述したステファン・ボディアンの師でもある聖者ニサルガダッタ・マハラジは、次のように喝破します。
 「これはジョークです。
  自分は罪を犯さざるを得ないという思う事もまた神の意思なのです。
  「私は明け渡す」という事も私たちがコントロールは出来ないのです。
  明け渡すという個人がいる限り、それは個人のエゴだからです。」
 そしてクリシュナの真意を解読します。
  「クリシュナにとっては、アルジュナの理解力では、一元のレベル、最高のレベルで真実を理解する事が出来ないと分かっているからなのです。
   だからクリシュナバアルジュナのレベルまで降りてくるわけです。
   つまり、「あなたの相対的なレベルでは、自分が罪を犯していると考えているけれども…」となるわけです。
   けれども、「ゆだねる」ことさえ、実はアルジュナ自身がコントロールできる事ではないのです。」
 それに対して、「では、ここでの矛盾は?」と聖者に質問をされた人がいました。
 彼は以下のように答えました。
 「何も矛盾はありません。
  何の罪も犯していないのです。私という者は一者にとっては行為をしていないからです。観念によって行為しているだけです。行為をしていないのに、どうして罪を起こすことができるのでしょう。
 しかし、そうした理解は難しいでしょう。
 クリシュナは何百万人のアルジュナの為に、どんどんと低い相対レベルまで降りて来ざるを得ないわけです。」

───而して、この聖者の言葉もまた観念です。
 それは、マハラジ自身がそのように言っております。

 ここで私が言いたいことは、正否や罪の意識を持つ事がいけないということではないのです。
むしろ、そうした観念によって、私たちの生活は守られ、円滑に履行されているのです。
ただ、それらは大事かもしれないが、あくまで観念ではあるわけです。
私たち氣道家にとっては、そうした観念も尊重しながら、そこからも自由になっていく事と、ほんとうに私たちの生命力が羽ばたくという事を申し上げたいのです。

罪の意識や正否は、一般常識や道徳、倫理に影響されますが、結局のところその人自身の観念によって定まります。
先に言ったように、凡てが自分の観念によってこの映画の中に泳いでいるわけです。

教会にて正直に懺悔をすれば心洗われる気持ちになります。
また儀式のような他をも巻き込んだ形は、これまたそれ以上にさっぱりとした気持ちになりますが、手術やサプリ、ドラッグ同様、別の依存が本人の無意識内だけでなく様々な形で生まれてしまい、必ずや次なる罪を生み出してしまいます。
何故なら観念によって罪を作ったのに、その観念自体を払拭したり、観念の源である体を変えることに触れずに、つまり下痢や花粉症という症状を作ったそれ自体に触れずに、ただ薬を飲むように、
また別の観念でもって罪を拭おうとしているからです。
これではもともと無い罪という観念の上塗り、つまり「罪の上塗り」になってしまいます。
ただ罪に苛まされている方、症状で苦しんでいる方が、そうした手段に走ってしまう気持ちも分からないではありません。手術や投薬同様、それがどのような結果を齎すかを知らなかったのですから。
けれども、ステファン・ボディアンが言うように、たとえ知らなかったにせよ、そうした行為を求めてしまった(あるいは求める)自分の気持ちがどこから来るのかは調べる必要があると確かに思います。

しかし、そのような他が介在する形ではなく、たった一人で行う方法、たとえば内観法では、
それが自分の観念の作った罪の意識であっても、その懺悔より、観念からの開放に向う事があります。
(「向う事があります」というのは、殆どの場合が「内観は泣き観」と言われるように浅い感情的レベルの開放で終始してしまうケースも多いからです。或る方からコメントがありましたので念の為申し添えておきました。)

罪の意識を持つこと、観念を持つこと自体が悪いわけではないのです。
大事なのは、それが観念であるという事を自覚する事、あるいは、その開放のさせ方なのです。
(ここもコメントを戴いたので補足します。
 「氣道は観念からの開放の道である」と常々書いていましたが、完全な開放の「まま」で生活をする事はできません。観念という言葉を突き詰めれば、赤信号でも横断歩道を渡ってしまう事になるからです。
 仕事や人に接するなど生活をする上で観念は大切な役割を持っています。
 また「観念であるという事を自覚する」というのは、そのことによって、ほんとうの自分と観念との分離が生じ、ほんとうの自分が顕れてくるからです。
 クリシュナムルティは真の開放のために方法論は要らないと繰り返し言っておりましたが、唯一、この自覚すること、即ち自己凝視(自観法)だけは推薦されていました。
 つまり、自覚すること自体が「開放のさせ方」でもあるわけです。
 そして罪の意識で言えば先述の場処、他の観念なら他の場処、というように、観念から自由になったりニュートラルな関係になった時というのは、観念の集合体であるといっていい身体も必ず変化します。
 恩師の山本健二先生は「真の自己を発見すると全ての細胞が変ってしまう」と言っておりましたが、その意味でも真実だと思います。)
 
正否、罪の意識は、人にとって大事な観念です。
観念あるからこそ、人は悩み、その事によって、体や心を育み成長させる事もできるのです。
これが、以前にこの日記で書いた「苦しみ」という題名の真意です。

けれども、どんな時であっても、いつも、氣(いのち、瞑想、神)という一元は、ここにいます。
この日記を、私の死後如何なる時に読まれたとしても、
いつも、今、ここにいます。
そして、ずっといます。
そして、今までもずっといたのです。

最近、野口晴哉先生の昔の文章に触れました。
それは、体癖の違いからくる書き方こそ違っていましたが、ステファンさんやマハラジ、あるいはラマナ・マハリシと同じことを言っていました。
まさしくクリシュナムルティと野口晴哉はやはり同じことを言っていたと、感強くしました。

先生が十代の頃に書かれた全生の詩という文章があります。
今日の氣道会でも「長谷川さんにとって『全生』とは何ですか?」と尋ねられました。
多くの方は、生を全うする事を全生と言うのでしょう。
しかし、生とは何なのでしょう。
あるいは全うするとは、どういうことなのでしょうか。

そうしたこと。
私たちはそれこそ観念で捉えます。
生とは○○である。
全うするとは○○のことである。

私が今日言ったのは、今に生きることである、という言葉でした。
今、ここしか、生きていないのです。
未来も推測ですし、過去も想い出です。
ありありと映ることもあるでしょうが、だとしたら、なおさらこの今に未来も過去も含まれているのです。

そして、「今!」と認識した時は、それは過去です。
相手や自分の呼吸を同調しようとする時と同じです。
「ほんとうの今」に、あるいは今、ここに生きようと本当に思う時、
今は時間の軸から外れます。

そして氣(いのち、瞑想、純粋意識)が現れます。
(それは本当に単純な作業ですが、誰もあまり真剣に行っていないようです。
 最初は、一秒を何十分の一という、時間軸の中での微分化作業になるけれども、
  (だからこそ、私たちは速読法の訓練を推薦しています。頭がクリアでないと、思考を見つめられないのです。思考が速くならないと、逆にその狭間が認識できないのです。氣道家にとって、速読法は情報処理能力アップのためではなく、瞑想を顕すためにのみあります。)
 そうした微分化作業を行うことによって、連綿と続く「かに思える」時間の狭間が顕れだすのです。)
───そんな事を氣道会では申し上げました。
 ぜひ、今、行ってみてください。)


期待があると、今楽しくなります。
心配があると、今が苦しくなります。
そうした未来への事だけでなく、
今、家族の訃報を聞けば慟哭に打ちひしがれるでしょう。
また、現在のことだけでなく、過去に引きずられてしまうこともあるでしょう。
人として生まれ、思考あるが故に観念、エゴを持ったわけですから、仕方ありません。

而して、そうした観念をもできるだけニュートラルにし、できたら払拭し、
あるいは逆に活用して、生きたいものです。

そのためにも、ほんとうの「今」を味わっていきましょう。

どうぞ、これを今読む皆さんにとって、

「今」が十全とされますように。

野口先生の全生の詩の最後は、次の言葉で結ばれます。
そして、それは私たちが言葉としてはいつも行っている事でもあります。
ウーム
   
 「大丈夫」

(其れは大丈夫と言い聞かせる暗示ではありません。
 大丈夫という前に大丈夫が在るのです。
 つまり一元の大丈夫なのです。
 如何なる時であっても天行健であることを知った者の気合でもあるでしょう。)

自然〜愉氣

 人はその人のフィルターでしか物事を見ていないし、まして捉えてもいない。
 ただ、それが自然の中に入ると、ふっと除かれることがある。
 それ故、自然の素晴らしさと、そして自然の中で味わう状態を裡なる自然によって培う方法の重要性を言っている。
  (実は外なる自然も裡なる自然も、その根は「氣(タオ、純粋意識)という一なるものであるが)
 実際、【氣道の学校】(中等)卒業生は、観念のフィルターが淡くなるため、相手の味わうお茶の味を、相手に意識を合わせる(=愉氣)だけで味わうことができる。

 逆に言えば、同じ自然の光景を見ていても、観念や思考の層が厚いと、捉え方が違ってしまう。
 相手の思考のほうを感ずる事もある。
 そんな事を先に感じたのであった。
 
 相手の思考を感じようとするなら、相手から何かを学びたい、相手を尊重したい、と思うなら、
 思考を鎮め、心を開こう。
 これは相手が自然であってもそうだ。
 そしてこれはそのまま愉氣でもある。
 
 逆に言うならば、相手から(其処から)学びたい、相手を尊重したい、と思う気持ちが愉氣の原点なのかもしれない。
 氣道を伝える人間でありながら、反省しきりの今宵であった。

巡礼の旅 「その日からできる 『究極の健康法』 と 『手当て法』」

  明日(6/26、午後2〜5時)は、アネモネ主催の講座。

 「その日からできる 『究極の健康法』 と 『手当て法』」
    http://kido-staff.jugem.jp/?eid=18


  内容的には、沖縄講座と同じ。
  そして横浜道場で明後日(日、27日)行う「氣道会」とも関西支部(7月30日)に行う講座とも同じ。
  魂の実家、沖縄から始まり、人形町という長年住んだ氣道発祥の地、そして生まれた横浜、そして定期的に行っている芦屋、と
  私の縁深き場所で、まったく同じ講座を行っていく。
   (そのように企画したのではなく全くの偶然である)
  しかも内容は、「氣道のエッセンス中のエッセンス」である。
  まるで巡礼の旅のようだ。
  明日は、沖縄講座にいらした方もいらっしゃる。
  講座もまた整体同様、その時その場で生まれる一期一会のもの。

  
お時間のある方は
 ぜひ氣道のエッセンスをお伝えするこの一度きり、一期一会の機会を活用され、沖縄でもそうであったように、
  一生残る、一生使える「宝」を持ち帰ってほしく願っている。

沖縄報告

  
今日、久しぶりに横浜道場に行くと皆が言う。
「先生、お疲れさまでした!沖縄はどうでしたか?」
 (中には、「日記が更新されていません!沖縄はどうだったのですか!!」というスタッフからのメールまで…)
「明日の横浜道場16周年祝賀会の時に言うよ。でも別に話すことはないよ。」
…と答えると、皆「そうですね…」と言いながら口を尖らせる。
 (注/昨日(6/22)が横浜道場の誕生日。なお祝賀会はクウム(道場二階)にてスタッフのみひそやかに行う。)

話すことがない、というのは本当だ。
それは私にとってあまりに自然だったからだ。
なので、この日記でも、どのように書こうかと案じていた。
スタッフブログにと或る沖縄関係スタッフが投稿されたと聞き、見ると、今日は、沖縄祈りの日ということで、
今日は65年前に沖縄戦が終結した日だとのこと。
スタッフブログ http://kido-staff.jugem.jp/?eid=64

ならば、明日たとえ一分でも話すことを書かねばならないと思い、この日記に向っている。
そう、スタッフブログでも、
「出発するかなり前から、長谷川先生は…
 「沖縄を訪れるときには、南部の戦跡に伺い、
 亡くなられた多くの方々のために祈りを捧げたい…」 」
とあったように、そうした想いが強かった。
大変烏滸がましいのだが、某かの援助がしたく、修験者として以前はよく行っていた土地の祓いではないが、新たな場に行く時には「製図」といい、其処に相応しい図こそ私は描かないけれども、そこの場に相応しい自然に出る動きに沿って舞い(今回の場合は私の知らない言葉、真言や歌が自然と出てきた)、場が変わったならば、と思っていたのだった。
沖縄への旅が近づくにつれ、そんな烏滸がましい思いも薄れ、
こんな私が行ってもどうなることもないだろうが、ただそうしたことを引き起こした部分が私の中にもあると思い、ただ謝りたかった。

那覇空港を降り、初めて感ずる沖縄は、「ここは知っている」という感じであった。、
一番近い既知の場所で言えば、明後日から行う「砂療法」の白子(海岸)である。
実際、何度となく、似ているなぁ、と思った。
そう、私にとって沖縄は、本や人から聞くイメージと全く異なり、
よく帰る実家に戻った時のような感であった。
(「よく帰る」ので懐かしいという感慨も湧かなく、ただただ自然であった。)
それ故、スタッフにも言ったように、何も話すことはなく、話すと言えばそれだけなのである。
あまりに、あまりに慣れ親しんだ、自然な感じなのだった。
そしてそれだけのことのなのだが、そこにすべてが孕まれているような旅でもあった。

夕暮れの糸満でなぜかBPさんとはメールができたこと(本当にシンクロニシティのように以前この日記で書いたような透明な時間だった)をはじめ、
起こったことは実に様々だ。
何しろ初めての方に講座そして整体をしてゆくわけだから、その最初で最後になるであろう体験は、時々、万華鏡を見るかの如くであった。
(もちろん行く前からそうであったが、今となっては最後にはしたくない…
 しかしこれもエゴだろう。
 ただ、私はその時合った方々、触れた方々、行った場所に、ずっとずっと愉氣していたいだけだ。)

そのように書けない程に様々なことはあったが、過密なスケジュールも、
常に一つの息で導かれていた。
それは東京道場での指導でよく感ずる数時間の指導でも、一つの息になる感覚と同質であり、また同時に、それ以上の予定調和的な更に大きな一つの息と共に常にあった。

その意味でも、沖縄に行ったのではなく、戻ったというか、ただいつも自分が確かにいる時の感覚(それは同時に表層の自分がない時の感覚である)であり、先述の表現ではよく行く実家と書いたが、ともかくすべてが慣れ親しんだもので、文字通り自然な感じであった。

それだけでは読者は面白くないかもしれない。
その意味で言うなら、先に白子に似ていると書いたが、その面では一つ言える。
ツインソウルという概念があり、分け御霊の人、つまり片割れに出会うと、それまで好きであった方の全てがその人に含まれていると気づくというらしいが、沖縄では、白子以外の、たとえば私にとって原風景である穂高も含め、
そうした思いが本当にたくさんあった。
それこそこの肉体の実家も含めて。

逆に言うなら、ツインソウルをどこか潛在意識内に知っているからこそ、その片鱗のある方を好きになったりするのかもしれない。
あるいは、ツインソウルが誰であるのか分かるためにも、そうした片鱗ある方に出会うのかもしれない。
そんな事は空想であるが、
もしかしたら、この土地を味わおうとして、小学時代から穂高に行ったり、湘南で過ごしたり、他の所に行ったりなどしていたのではないか、
…と、沖縄でほんとうにそう思ったのであった。

そうした上で述べた全てのことは、久高島に行き、更に強まった。
というか、自分が、今、連続した人生の時間から乖離したことが分かった。
(分かったというか感じた)
私は、今回の旅は長年の念願である沖縄への出張指導なのであるが、
もし時間があれば、久高島に行きたい、それこそが仕事以外の面で沖縄に行く意味だ、と思っていたのであった。
(ちなみに、今回、久高島以外でも、そうスタッフブログでもあるように原田ゆふ子さんの許の海岸をはじめ、ゆふ子さんがご紹介して下さったところも結果論としてはほんとうにここに来るために、という場所ではあった。)

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この後、一番書きたいことを書き、
その後、まとめの文章を書いて、
ホッとして、
今送ろうとボタンを押したら、送れずに、
結局、保存していた上記の部分までの文章になってしまった。
大変ショックである。
しかし、前半だけでもと、掲げさせて戴く次第である。

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 ほんとうに、ゆふ子さんには、この紙上を借りて、御礼申し上げます。
 また、権ちゃん、chojiさん、奈央ちゃん、ごうさん、祐美子さんをはじめ、沖縄在住の皆さん、
 ほんとうに有難うございました。
 
 心から魂から感謝申し上げます。

 

無 

  無は無としか表現できない。
それは空(くう)とも言われ、また、純粋意識、タオ、氣(偏在する氣)、梵(ブラフマン)、宇宙意識、宇宙の息、気づきの海、愛、神とも言われている。
個人的な感覚では無、あるいは同時に全、空、あるいは透明という言葉がしっくりする。
それ以外の言葉は、その状態を説明するための代名詞というか、たしかにそうではある、という印象だが、これは、たとえば私が梵とか氣という言葉に慣れ親しんでいれば別なのかもしれない。

思考の狭間に入るというような生易しいものではない。
たしかにそこも無ではあるが、まだまだ有がある。
それに気づけない。
完全な無は、ほんとうに透明だ。
切り開かれた真空だ。 全、空間的に拡がるのではない∞だ。

それは「今」であり「ここ」だ。
だから「今」は時間の中に無い。
「ここ」は空間の中に無い。

透明に自分がなった時どう感ずるか。
透明人間ではない。
完全な透明。思考も全て透明。
ほんとうの透明。
ただきらびやかな、否そうして言葉化すると違う。
ただ輝きという、否、無という、真空がある。
全でもあるが、何にせよ言葉にすると、どう捉えられるのかではなく、自分自身に嘘をついてしまう。
無は無だ。
真空だ。
透明だ。
すべての根源、  源だ。

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そこに戻る毎に、私たちは此処(そこ)から生まれ、此処に還っていくのだろうと思う。
そこには絶対の安心がある。
今日、思考が戻り浮かんだのは、「永遠の幸せ」という言葉だった。

ある会員の方は「甘美な薫り」と表現し、またある方は別の表現をされた。
ほんとうの自分、ほんとうの自分の家に戻ることを、つまり無や空、タオ、氣、等々に戻ることを、
目覚め、気づき、自己発見、悟り、顕現、解脱などと言う。
それを求める道を氣道と言う。
けれども、それはほんとうに大したことではない。
悟るから偉いのでは全くない。
そこから私たちは生まれているわけだし、そしてそこ(此処)に還ってゆくのだから。
むしろ何かの技術を通して、あるいは思考を自然に用いることを通して、貢献していくことのほうが余程大変だし、余程素晴らしいとも思う。

ただ私たちは、それ(此処)を求むるように出来ているようだ。
この重力ある猥雑な摩擦の刺戟を求めて生まれ、そしてその生の中でも、さらに純化しようと求めるように出来ているようだ。
これはDNAよりも深いレベルでなのだろう。
そのように、人が自然に生くると、自然にそこを目指し、そこ(此処)と共にありたくなり、
そうして、その道こそが人として自然に生くる氣の道なのだろう。
それは、自然な運びであり、それ故、悟る云々よりも、この現実生活に於ては、感謝や貢献のほうが尊いと思う。

そう、実際のところ、悟ること、無を感ずること、目覚めること、
それと、道徳や倫理とは全く関係がない。
 (それ故、氣道会では「飲む、打つ、買う」は関係がないというが、それどころではない。
  それに対する意識だけが問題となる。)
今日は、親鸞だったか道元だったか「いわんや善人をも」という言葉を錦糸町で思いだした。
悪人のほうが悟りやすい意味が初めて分かった。
そして、健康も実は関係がない面がある。
そう言うと、健康道でもある氣道は…と言われそうであるが、ホームページの代表からの挨拶で書いたように、元より、氣道は自然健康道というよりは健康自然道である事、ご理解戴きたい。
同時に、例外もあるというか、悟りは突如として起こることがある。
それは、身心の健康、健全とは関係なく。
そして、悟ったから何が変わるわけではない。
否、大きく変わる。
確かに身体細胞は一変するだろう。
而して、それが何だと言うのだ。
私たちの本源からして肉体がどうだというのは、海を砂浜近辺の波と捉える、ホクロをしてその人全体と捉えるかの如く、全く末節な事に過ぎない。
そのように、生きている間に死に、源と一つになったにせよ、蚊に刺されれば痒いし、時がたてば腹は空き、飲めば酔う。
確かに、痒みや食欲や酔い方も激変するが、それはある。
むしろ変化するのが面白い。

ユクテスワは「健康な身体と健全な精神にこそ、神は十全と現れる」とヨガナンダに語った。
まさしく然り。
その位に考えたほうが良かろう。
然して、私たちの生命は、健康な身体と健全な精神を求めざるを得ないように出来ている。
自然に生くる限り。

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彼(か)のような、アンビバランツとも言える構造に、無(タオ、氣)と、この現実とはなっている。
実際、この日常に戻るということは、思考も戻さねば難しく、
それ故、その思考つまり私が培ってきた観念形態を取り戻すことで、目前の現実を認識し始める。
即ち、認識とは、観念形態の所産故、自分の中でのほんとうの自分とは乖離されている
創られた分離した自己の中に戻る作業である。
つまり、私たちは、コンピューターで言えば、入れられたソフトによって現実の観方が変わるわけであり、
その意味で言えば、私たちが常に味わっている現実は、夜に見る夢以上に、夢の世界に他ならない。
実際、今日も、その過程を味わったが、
それは、夜の夢に移行する時のそれとは異なるが、たしかに夜の夢へのヒエラルキーよりは、遥かに大きいヒエラルキーを、純粋意識とこの現実では感ずる。
(それを味わうところを見つめる作業は、ちょうど小説家の埴輪雄高が眠りに至るところを微分化して解説していたような感である。)

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ここで今日言いたかったことというのは、
そうした体験を今日できたというのが、ゆん君(佐野裕子)の瞑想誘導によってであること。
(長い時間を瞑想に割くという事が現在出来ない状況ではあるが、
 自身の瞑想よりも、彼女が誘導してくれたお蔭で深く入れたと思う。)
自分で或る場処を押さえるよりも、他人が押さえてくれたほうが(整体)効果が増すという事が味わえた。
もちろん、うまい方が押さえる、誘導するというのは前提であるが。

そして、氣道が上記の如くである以上、
個人指導(整体)は、その(悟りの)ための体現でなければなるまい。
と常に言っている。
而して、完全な無では、現在の私の力量では、中々に難しい。
この理由については、また別項あるいは、次回以降の【整体法修得一年コース】の中で語ろう。
現在の私は、そうした経験をしてしまうと、(何度も言うようにただ元に戻るだけの経験である!)
日常生活に戻るのは以前よりは早くなったが、そのままの感覚で日常生活もは、出来たことも去年あるが、中々に難しいのである。
 (それを、サルビカルバサマーディの段階というらしい。もっと進めば、日常生活もそのままできるらしく、(それを、ニルビカルバサマーディという。ラヒリ・マハサヤはそうだったらしい) 今言ったように、一度その体験をしたのだが、(私が味わったことが真実それと同じかどうかはわからないが、しかし実際そうした体験をしたので参考のため書かせて戴く)それはほんとうに「こういうこともあり得るのか」という感じで、二つの自分がいる、というと語弊があるが、どちらも使える、意識レベルそしてそれらを管轄する意識レベルがあるという感じだった。いみじくも、そのときに、ゆん君(佐野裕子)に、「どうして先生は同時にそれができるのですか?」と見破られてしまったのだが、恥ずかしながら正直に言うと、それ以降は、中々出来ていないのである。)

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こうして、思考、言語を使い始めると、その面白さに引き込まれて、つい饒舌になってしまった。
(思考やコンピューターが使えるまでなった事はありがたい。
 明後日からの沖縄はどうなってしまうのか、とも東京道場では思っていたので。
而して、これにて、また瞑想に戻りたし。

(追記/最後に。上記に(つまり真の氣道に)興味のある方は、
     クリシュナムルティの本や、ステファン・ボディアンの「過去にも未来にもとらわれない生き方」、
     治療の書(あるいは偶感集)野口晴哉著、「あるヨギの自叙伝」ヨガナンダ著
     を一読されるといいと思います。
     その上で、8月の【氣道の学校】(【心の学校)にいらっしゃったらと思いますが、それは、
     沖縄から私が帰る事が出来て、かつ…という感じでしょうか。)


     
これをご覧になる皆さまに、
永遠の幸せより、
祝福の氣が伝わりますように。


合掌。

 無

 

    無                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         




沖縄3

そうか…
断言までしてしまったのか。

これは沖縄での個人指導の事。
(委しくは、
 http://kido-staff.jugem.jp/  の「この週末、沖縄にて特別講座、初開講!
 を、ご参照の程)

それによると、
淨潤先生、断言!
 「沖縄の皆様のために、その方にあった一生残る愉氣を行います。」
 これはお金の問題ではないのですが
 
おそらく受けられる料金の、数十倍、数百倍もの価値はあることだと思います。 」
…との事。
 (数十倍〜数百倍となると、一回数十万〜360万!)
こ、これは、凄い…
私も受けてみたい…
 (ちなみに、今まで受けた整体で最も高かったのは菅野満氏の8万円であった。)
───などと言っている場合でなく、最終準備&確認をしなくてはなるまいが、
しかし、確かにそう。
今後、沖縄の皆さんとお会いできるかどうか、分からない訳ですからね。

この方とは最期の整体となるだろう、という整体は数多く行ってきたし、
常に言うように整体は「一期一会」の場故、
大概はこの方と二度と逢えぬかもしれない、という覚悟も持って整体を行ってきたが、
初めてお会いする方に、最初で最後の整体と分かって行った経験は、もしかしたら百名にも満たないのかもしれない。
しかも沖縄では、それが全員である。

而して、同じ人と出会っても同じ身体に出会う事は無かった。
私もまた、日々、否、瞬瞬生まれ変わる。
その刻々の生まれ変わりを感ずるに、「今」という掛けがえのない一期一会を際限なく生きている事を実感する。
即ち、一秒の中に何十回、自身との一期一会があるのだろうか。
そうした実感と共に訪れる、鋭利に時間が剥ぎ落とされる事によって現れる、この「時」のない空の感覚から導かれる、息の深さと共に沖縄に行こうと思う。

「いのち」と「生命」との関係性を繋ぐのは、常に、息そして息の背後にあり息を創っている源の調べだ。

沖縄の方々、待っていてくださいな。
そして、帰ったあともずっと愉氣してますよ。

(もちろん関西、関東で受けられた方も。)


鎌倉(沖縄2)

今までずっと書き、校正していた文章が全て飛んでしまった。

昨日のつづき。
鎌倉での様々なシンクロ。(ターニングポイントの事)
東京道場の指導が今年一杯になる可能性。

その他、叙景詩の如くなるよう、何度も校正を重ねていたところ、
全ての文章が何処かに行ってしまった。
今までで一番纏まっていたかと思う文章だった故、
唖然とし、この30分探すが、見つからず…
また気を持ち直す事ができた時、この日記に向おう。

明日の東京道場そして沖縄での指導を充実させたし。

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