淨潤日記 「日日是好日」

氣道協会代表・長谷川淨潤のブログです。

葉月、近況

初めての8月の 「滝行」。
今から楽しみだ。
滝行というと、聞いただけで 「オッカナイ」 とか 「修行でしょ?」 と思い、
「私とは関係ないわ…」 と思われる人も多いようだ。
しかし、これほど気持ち良いことは、他にあまりないと思う。(特に氣道の滝行はそうだ)

実に爽快!!
流れ落ちる清水で身も心もクリーニングされてしまう。
オマケではあるが、マイナスイオン効果も相まって何より美肌効果がある。
これほど爽快で、瞬時にリフレッシュされる健康法は他に見当たらない。
滝行の経験ない方も、経験ある方も、ぜひ氣道の滝行の気持ちよさを分かち合いたく思っている。

葉月の整体

7月同様、夏は汗の処理、クーラーによる冷えさえ注意すれば良い。
よく働き、よく遊ぶ、この積極的な体の用い方が、そのまま夏の健康法につながる。

而して、8月の注意は、
7月の整体に書いたことを遵守して戴ければ良いのだが、
8月も中旬以降となれば、野分といって体の働きも穏やかになり、
そして後半になれば、場所によっては体は秋となる。
 
(体は、気象庁の予報よりも数週間ほど早くその季節になっている。
むしろ旧暦のほうが体の季節に近い。)
 
そのため胸椎5、10番が捻じれたり、3、4番が過敏になったりする。
体をよく捻った後、側腹(脇腹の皮膚や筋肉)を摘み、
腰部活点(腎臓)、足裏を(整圧)愉氣すると夏のだるさも抜ける。
 
また水分を取りすぎると余分な発汗につながり夏バテを誘導しやすい。
暑くて仕方のない時は、頭頂部とそのやや前をおしぼりで10分程冷やすとよい。
 
(氷よりも水や氷水で絞ったもののほうが効く。温かくなれば絞りなおす。)
 
体の火照りがとれてゆく。(これは三才以下六十才以上の方の発熱時にも有効だ。)
 
8月は足首が急処であるため「足首回し」も併用されたし。
簡単に思えるがほとんどの人がうまく出来ていない。
一度個人指導時に教わり、確認してもらうといいだろう。

狂う〜撃沈〜伝えるといふ事〜その上でも

和光同塵(相手のレベルに合わせる)、と釈迦は言うが中々に難し。
今日も「真に狂う」と真実が浮かび上がると或る方に言ったが、
「そうなのかもねェ。。」
との返答。

関係性のなせるわざであろうが
(それ故撃沈&猛省中即ち最初のボタンの掛け直し中である)
たとえ関係性のなせるわざでなくとも、
またそれが左脳であっても、徹底的に考えれば、その結論になる。
それ故、
たとえ話や、
他のことと照らし合わせて表現せざるを得ない。
「真に狂うというのは、たとえば自動運動みたいなものでしょう。
 そして自動運動を深めれば、晴哉先生の言葉を借りずとも無に至る。
 それは経験がないのかもしれないけど、そう言っていますよね。
 実際そうなのですよ。
 瞑想と自動運動とは、目的も同じですし、また両者、連動してゆくわけですが、
 どちらも無(空)を目的としている(即ち悟りを目的としている)わけですよね。
 真に狂うという意味は、これでお分かりでしょうか。」
…という如くに、別のたとえ話を使わなくてはならない。
しかし、それでも腑に落ちない人もいる。

縁無き衆生は度し難し、とも釈迦は言ったが、
縁合っても、求めぬ人は度し難し。
その意味で、「縁」と釈迦が言うことは知っているが、哀しいものだ。

而して、恩師釈迦、キリストと並べ恩師岡島先が同等以上と評される野口晴哉の書いた「治療の書」を思いだす。
今、手許に無いが、其の方が斯く経過を辿る、其の方が斯く反発する、其の方が斯く答える、
凡て自分の責任である、と。
即ち、単なる内因という自分に責任を求めるだけでなく、
氣道の立処である凡て自分の観念を通して見ている立場を押し進めた上での、自責である。

今年の【整体法修得一年コース】のテーマでもある
「果たして援助とは何か?」
ではないが、
自分(観念)というフィルター、自責、を原点とし、
定まっている運命、時間、空間、夢、神その他、もろもろの言葉が、明確にキッチリと整合性あって把握できるよう、
ただ、そのためだけに、ずっとこの日記を書いてきた。

(ある程度、完了か、と思い、このブログに日記を移した次第である。
 縁作れぬ自らを反省し、はじめのボタンを掛け直したく、、
 学ばれたい方には門戸開かんと、
 今後、スタッフ研修会のみの講座であったものを9月から公開する事にした。
 「読書会」である。)

現実に引き戻される

ちょっと夢をえがいていたのだが、
家族や同僚、友人とまみえるに「現実に引き戻される」感を覚える方も多いだろう。
我に帰るという表現になる事もあるだろう。
そう。
酒に酔っていた時のように、
一時の夢に溺れてはいけない。

「君は女神だ。君と結婚したい。」
…そう結婚詐欺師は騙すが、オウムの麻原氏もその如くである。
そこまでいくと、家族でも引き戻せなく、苫米地氏の言うように洗脳になってくる。

けれども、この世のあり方を真剣に考えた時、
すでに私たち自身が洗脳されている事に気づく。
これは瞑想の深まりによる直感ではなく、左脳的にもそう結論される。

今、私たちが見ている、あるいは聞いている、あるいは触れている、
あるいは感じている世界は、
「私」というフィルターを通してしか見ていないからである。

(言っている意味がお分かりだろうか?)

すべてが私を通してしか把握でき得ない。
そして、その私は、様々な教育、環境によって培われていった私である。
即ち、洗脳されている事を知らずに私たちは現実を捉えているのである。

(氣道は「観念からの開放である」とはこの十年以上、常々言っている事であるが、
 それは【氣道の学校】に参加されれば、脳で無く実感できよう。)

まさに、現実は幻想、夢(マーヤ)であり、そしてリーラ(遊戯)である。
そしてそのマーヤは誰が創ったのか?
リーラを創った神とは何なのか?

それを実感するのが、【氣道の学校】であり、
氣道自体の目的である。

而して、
一時の夢から醒め、
「現実に引き戻された時」の現実さえもが、私が捉えている現実に過ぎなく、
それこそ、夢、幻であるなら、
(そしてそれは【氣道の学校】卒業生は全員実感する事であるが、)
引き戻された感覚とは何なのか?

もちろん、その感覚も私、自分自身の観念によるフィルターで作っているに過ぎない。
全てがマーヤ、そして神のリーラなのである。
而して、
私が観念を払拭した時、クリシュナムルティの言葉を借りれば、
思考を静め現実直視をした時、「瞑想」が現れ、私は真の(ほんとうの)私となる。
(瞑想=タオ(道)=氣=いのち=純粋意識=ブラフマン=宇宙意識(野口晴哉)=宇宙の息=神)

それが、ほんとうの「現実」である。
ほんとうの私である。

それを知る、それを知ろうとする道が氣道である。
(上記した如く、氣は「それ」である。)


たった数時間や数日の夢に溺れ「現実に引き戻される」意味はあろう。
而して、その現実もまた夢なのである。
ほんとうの現実は、私たちのほんとうの自分にしかない。

ならば、この夢中に生くる時、多いに夢を持とう。
たとえ荒唐無稽と言われても、夢を持ち、生を輝かせよう。
そうした、夢中の遊びをこそ、ほんとうの私はリーラとして行いたかったのだから。

そして、その結果さえもが、ほんとうの私は知っている。
そんな世の中に私たちはいる。

而して而して、「ただ狂え」。
真に狂った時、すると逆に真(今)が現れる。
ほんとうの私を探す旅が終える。
けれども、問題は其処からだ。

自由滝行

 滝行が終える。

 皆、素晴らしかった。
 美しかった。
 
 女将さんにも申し上げたが、
 氣道では、青木先生が創られた天真流自由滝行を、
 先生の意志を継ぎ、さらに純粋な形にして行っているつもりだ。
 (故に氣道流という言葉も付けたくない!)


 さて、「来年も必ず来たい!」
 …という方が今まで何と多かったことか。
 而して、その方は来ないのである。

 最初の感動が薄れ、月日が経てば、
 まあ、こんなものか、と単なる思い出になる。
 …これは滝に限らず、人の常である。

 而して、身体、無意識は知っている。
 その背後の魂の歓びを。
 
 そうした歓びの声に耳澄ます方はいらっしゃる。
 何よりうれしかったのは、そうしていらっしゃり、
 今回で滝は卒業だね、と言える人が今回初めて出たことだ。
 
 この20年間、多くの方が、私たちの滝行を通して、滝に慣れ親しみ、独りでも入れるようになっている。
 さらに、そのように出来るよう、次回からは工夫した。
 (私の今回の滝行DVDも、レクチャーCDと共に予約時にお送りする。
  なお、独りで入られるようになるためには、工夫がもう一つ必要なのであるが、それこそ工夫したい。)


 今年は、あともう一回ある。

 滝行に少しでも興味のあるは、ぜひ氣道の滝行を一生に一度でもご体験して欲しい。
 
 (きっと、他で味わった滝行は何?という感想になるだろう。)

明日は滝行

 明日から滝行
 (ご予約、お問い合わせは045-261-3300まで)
今年は特に楽しみにしていた。

例年の半分に満たない参加者。
きっと和やかな実り多い合宿になるだろう。
夜の歓談時間も楽しみだ。
準備のための禊ぎも終り、明日を心閑かに向かえようとしている。

文月の整体

 いよいよ夏。──── 例年、身体は、旧暦の六月下旬から夏入りする。
呼吸器が活発になり、行動力も盛んになってくる。
 
春からの養生で身体を育てた方は、
よく働き、よく遊ぶことが、そのまま健康法に繋がってゆく。
ポイントは・・・・

 七夕会

もうすぐ七夕会
 (7/7、17時17分〜19時17分。
  委しくはスタッフブログhttp://kido-staff.jugem.jp/?eid=86まで)

なぜだかとてもうれしい。
例年だと、淡々と七夕会当日を迎えるのだが何故なのだろうか。
昨年の七夕会が、20年間行ってきた総まとめのように、美しき終焉を迎えたような感じになったからだろうか。
(氣道における夢(願い)の実現の真意が伝わった感じが、
 皆さんの願いを書いた短冊の「軽さ」と共に、
 とてもとても閑かで美しいひとときが流れていた。
 きっと昨年ご参加の方、短冊を送ってくださった方の夢は叶ったことだろう。)

そして、その上で、新たな生をもって七夕会が再生したのだろう。
すべてのものに命がある。
それは物だけでなく、想いや時も同様。
もちろん講座もまた然り。
私が何もしなくとも、七夕会という生命がそれ自体育まれていくのだろう。
その再生、育みの不思議さをして、
私をしてうれしき感じを、講座前から覚えさせてくれるのかもしれない。

おそらく明日いらした方、短冊を送ってくださった方の願い(夢)は叶うだろう。
そうした自然さからして、昨年以上に、そう「意識では」願ってもいない事まで叶うことだろう、と今朝思っていた。
しかし、そうしたことは自動運動の目的が、野口晴哉師が無である、と言ったように、そしてオマケとして自然治癒力の発揚、健康度の向上が得られるように、
七夕会にとっても夢(願い)の実現はオマケに過ぎないのだろう。
而して氣道の視点で言えば七夕会の目的も自動運動の目的と同じなのである。
ただ大きなオマケが違うだけ。

オマケを望んでもそれは得られにくいのは、グリコのオマケ同様。
ただ、七夕会は、オマケを望んで道場にいらっしゃったり、あるいは短冊を送ってくださったりした方々に、
如何にして、オマケ「をも」得られるかを、言葉のみならず氣(=エネルギー)としても、分かち合ってゆく。
(そのあり方は当会の存在理由と同様だ。
 即ち、身心の健康を求めて氣道協会にいらっしゃるが、
 結果として身心の健康以上のものを得てゆく。
 そのとき、健康は既に実現しているかの如くに。)

夢に対して恬淡としてご参加されるのもよし、
逼迫した渇望をもって参加されるのもよし。
それらの想いを、純化させ、私たちの真の願いに還元させてくれること。
それが、特に今回の七夕会を通して、自然に運ばれていく、ということ、
その自然な流れが
「ただ在る」ということ、
そうしたことが私をして「うれしい」と感じさせられる一番の理由なのだろう。

瞑想〜援助

 いつも言うように瞑想は、常に在る。
それ故、瞑想は顕れるものであって、作り出すものでものではない。

顕すには、思考(感情も含め)を鎮めること。
鎮まり難い人は、ただそのままに流心法をしてもいいし、同じ意味で自動運動もいい。
元より静まり難い者は、その堅固なエゴ(=観念)を拭うために、体の声を聞き、氣道のメソッドを活用するのもよい。
体が整うと自ずと瞑想が顕れるのも事実だからだ。

そしてそこに顕れた瞑想に気づけば、ただそれと共にいること。

瞑想は、空であり、沈黙であり、純粋意識であり、現存であり、「いのち」であり、愛であり、神であり、タオであり、
故に、遍く存在する「氣」であり、「自然」である。

氣の道は其の自然に生くる道である。
故に、敢て道を求める求道者になってはいけない。
私たちは実際に歩む歩道者にならねばならぬ。
而して、この道は自らの後ろに出来る道であり、その意では道無き道である。
因って氣の道を伝える者は、同義である沈黙なる愛を、
ただ愉「氣」し、
そうして相手(の身心、即ち身心)に沿って、言葉、整圧、等々を運んで行かん。

(※なお、この日記や会報、書籍その他の私の文章やCD、DVDで申し上げた事について、
  質問やご意見がある方は、
  講座内(氣道会、整体法講座、等々)あるいは打上げの席にて、
  質疑応答の時間を作っておりますので、ぜひご活用下さい。)

 今日は、「氣道会」であった。
 (内容は、いくつか前のこの日記で書いたように沖縄〜東京(人形町)の特別講座と同じもの。そして7月末には関西でも同内容の特別講座を行う。)

 氣道会で必ず言うフレーズの一つに、
「こうして話している事も、私の観念(考え)に過ぎません。ですので、正しいかどうかは分かりません。正しい正しくないというのは、ある基準があって定まる相対的なものです。戦争の時は人を殺すことが正しかったのです。 基準が変われば正しさも変ってしまう。
 ただ私は今日お話しした観念で生きていて、自分自身が楽だった、楽しかった、あるいは会員の方々がそうであったということにすぎません。」
 …というものがあります。

そう。
インドの教えによらずとも、凡てが観念なのです。
実際のところ、自分の目や耳でこの世界を捉えている以上、自分というフィルターつまり観念を通して感じているわけですから、私たちは自分の観念の中で、世界を捉え、そして反応しているわけです。
私が「整体の可能性」というインタビュー文章の中で、『すべて一人相撲である』というのは、そういう理由によります。
そう、観念の中で、まるで映画の主人公の如く演じているのです。映画を作っている気持ちになりながら…

私という自我が無くなった時、ほんとうの私つまり氣道で言う「氣」「宇宙の息」、タオ、純粋意識、いのち、神に至った時には、観念は払拭されていますから、一人相撲からも開放されているのでしょう。
もちろんその時には、正しいも正しくないもありません。
相対世界ではない一者の世界なのですから。

この日記の題名である「罪」についても同様でしょう。
昨年、私が罪についてある方にメールをしたところ、その返信メールでこんな一節がありました。
「恵比寿さまも「この世に罪などないわいなぁ〜。振り子の法則をよく読んでみなはれ〜」と仰っていますよ。」 
振り子の法則とは、私も【氣道の学校】(中等=【心の学校】)にて、紹介することのある本で、お金に関することの一部とエネルギーワークを除いて、その凡ての概念を取り入れて【氣道の学校】を行っていた程共感する本です。
そして確かに、その方の仰る通りなのです。

正しい正しくない、いい悪い、という「正否」同様、罪もある基準や観念によって作られるのです。
先にも書いたように、戦争の時は、人を殺めるのが正であり、もちろん罪にはなりません。
その基準は、その時々の道徳、倫理、常識、法律、規範、戒律、その他もろもろのものによって定められるわけです。
そして、もちろんそれ自体が観念でありますから、それが正しいかどうかは分かりません。
基準だけでなく、観念も同様です。
その人自身の観念によって罪と捉えるわけです。
いわゆる罪の意識というものです。

戦争の時であっても、人を殺めて罪の「意識」を持つ方もいるわけです。
現在でも泥棒が認められている国はありますが、その国の中でも罪の「意識」を持つ方もいるでしょう。
これは個人の観念であります。

観念は、自我から発生します。
ステファン・ボディアンの言葉を借りれば、分離された自己から発生します。
即ち、私たちが正否、あるいは罪などの認識をする事、分かるというのは文字通り、分けるという言葉から作られていますが、そうしたことは、分離された自己、自我、エゴから発生するわけです。
けれども、それはそれこそ良い悪いではなく人間の宿命と言ってもいいでしょう。

そして自我、分離された自己の状態は体に反映されています。
罪という観念感覚を持つ時は、頸椎3、4番の左倒れ、胸椎3、4番の過敏、7番弛緩、8番左、腰椎2番左、頭部第四弛緩でかつ重心が左に傾いています。
実際のところ、そうした体状況になった時しか、人は罪の意識、罪悪感を持てないのです。

私たちは、一者である「氣」から生まれてきました。
そして、そこに死んで還っていくのでしょう。
そうして、こうして生きている今も、その偏在する「氣」、タオ、いのち、瞑想はずっと在るのです。
夜、眠ると還るように。

そこから生まれ、思考を持ち、即ち、一者から分離された自己、自我を持つと、様々な分断をしてゆくわけです。
私はそれこそ 「罪」だも思うのです。
それが、私をしてキリスト教のいう「原罪」という真意ではないか、ということは以前にも、この日記で書きました。
しかし、それは「氣」、いのち、純粋意識、タオ、神、という一者から分離したことを罪と定義しているわけであり、またそれは私自身の感覚的解釈であり、上で言っている意味とは異なります。
ただ、それも私の観念であります。

先に振り子の法則やインドの概念を紹介しました。
次いでに紹介しますと、インド発祥の私も大好きなヴェーダの聖典であるバガヴァッド・ギーターの冒頭で主クリシュナの言葉が言っている言葉です。
 「あなたは、どんな罪を犯す事も出来ないし、称賛に値する行為を行う事も出来ない。」
そして、
 「あなたの原初の理解は無知によって曇らされている。
 そのせいで、あなたは物事を功罪でしか見ないのである。」
と続くのです。

(実は、この引用に落ちもあります。
 …というのは、この冒頭は聖クリシュナの言葉でありますが、最後の部分では、
 「私に明け渡しなさい。そうすれば、自分が犯してしまったと考えざるを得ない凡ての罪から、お前を救ってあげよう。」
 となるのです。
 この最後の部分を、多くの方々は勘違いするわけです。
 罪が無いと言っておきながら、罪があるということはどういうことか。
 一元の世界を唱えるヴェーダの中でも、罪とか正しいとかいう相対的なそのような事があるのか、と一瞬はその矛盾に苦しむのでしょうが、その後、それは必要なのだろうと、勘違いをするわけです。
 そのため、
 時系列的には逆ですが、仏陀が死んで500年経ってから様々な教典が出来たように、ヴェーダにも様々な解釈が生まれるのです。

 野口晴哉先生は、自動運動(活元運動)の目的を無と断言しました。
 而して、同時に先生は健康法として紹介をされていました。
 そして先生の健康の概念は他の方や常識とはまた異なったものでした。
 健康法とは必要無くなるためにこそ存在する、とは私の常套句でありますが、そのくらいに自動運動をも捉えていたのでしょう。
 一元に至るために二元、相対の論理でのワークや健康法、儀式を行うのは、鏡を見て、鏡にお化粧をしているのに似ていると思うのは私だけでしょうか。
 否、鏡を壊して、私は大丈夫と思う姿に見えるのは私だけでしょうか。
 そうして、無限の求道と依存が生まれるのです。

 而して、先述したステファン・ボディアンの師でもある聖者ニサルガダッタ・マハラジは、次のように喝破します。
 「これはジョークです。
  自分は罪を犯さざるを得ないという思う事もまた神の意思なのです。
  「私は明け渡す」という事も私たちがコントロールは出来ないのです。
  明け渡すという個人がいる限り、それは個人のエゴだからです。」
 そしてクリシュナの真意を解読します。
  「クリシュナにとっては、アルジュナの理解力では、一元のレベル、最高のレベルで真実を理解する事が出来ないと分かっているからなのです。
   だからクリシュナバアルジュナのレベルまで降りてくるわけです。
   つまり、「あなたの相対的なレベルでは、自分が罪を犯していると考えているけれども…」となるわけです。
   けれども、「ゆだねる」ことさえ、実はアルジュナ自身がコントロールできる事ではないのです。」
 それに対して、「では、ここでの矛盾は?」と聖者に質問をされた人がいました。
 彼は以下のように答えました。
 「何も矛盾はありません。
  何の罪も犯していないのです。私という者は一者にとっては行為をしていないからです。観念によって行為しているだけです。行為をしていないのに、どうして罪を起こすことができるのでしょう。
 しかし、そうした理解は難しいでしょう。
 クリシュナは何百万人のアルジュナの為に、どんどんと低い相対レベルまで降りて来ざるを得ないわけです。」

───而して、この聖者の言葉もまた観念です。
 それは、マハラジ自身がそのように言っております。

 ここで私が言いたいことは、正否や罪の意識を持つ事がいけないということではないのです。
むしろ、そうした観念によって、私たちの生活は守られ、円滑に履行されているのです。
ただ、それらは大事かもしれないが、あくまで観念ではあるわけです。
私たち氣道家にとっては、そうした観念も尊重しながら、そこからも自由になっていく事と、ほんとうに私たちの生命力が羽ばたくという事を申し上げたいのです。

罪の意識や正否は、一般常識や道徳、倫理に影響されますが、結局のところその人自身の観念によって定まります。
先に言ったように、凡てが自分の観念によってこの映画の中に泳いでいるわけです。

教会にて正直に懺悔をすれば心洗われる気持ちになります。
また儀式のような他をも巻き込んだ形は、これまたそれ以上にさっぱりとした気持ちになりますが、手術やサプリ、ドラッグ同様、別の依存が本人の無意識内だけでなく様々な形で生まれてしまい、必ずや次なる罪を生み出してしまいます。
何故なら観念によって罪を作ったのに、その観念自体を払拭したり、観念の源である体を変えることに触れずに、つまり下痢や花粉症という症状を作ったそれ自体に触れずに、ただ薬を飲むように、
また別の観念でもって罪を拭おうとしているからです。
これではもともと無い罪という観念の上塗り、つまり「罪の上塗り」になってしまいます。
ただ罪に苛まされている方、症状で苦しんでいる方が、そうした手段に走ってしまう気持ちも分からないではありません。手術や投薬同様、それがどのような結果を齎すかを知らなかったのですから。
けれども、ステファン・ボディアンが言うように、たとえ知らなかったにせよ、そうした行為を求めてしまった(あるいは求める)自分の気持ちがどこから来るのかは調べる必要があると確かに思います。

しかし、そのような他が介在する形ではなく、たった一人で行う方法、たとえば内観法では、
それが自分の観念の作った罪の意識であっても、その懺悔より、観念からの開放に向う事があります。
(「向う事があります」というのは、殆どの場合が「内観は泣き観」と言われるように浅い感情的レベルの開放で終始してしまうケースも多いからです。或る方からコメントがありましたので念の為申し添えておきました。)

罪の意識を持つこと、観念を持つこと自体が悪いわけではないのです。
大事なのは、それが観念であるという事を自覚する事、あるいは、その開放のさせ方なのです。
(ここもコメントを戴いたので補足します。
 「氣道は観念からの開放の道である」と常々書いていましたが、完全な開放の「まま」で生活をする事はできません。観念という言葉を突き詰めれば、赤信号でも横断歩道を渡ってしまう事になるからです。
 仕事や人に接するなど生活をする上で観念は大切な役割を持っています。
 また「観念であるという事を自覚する」というのは、そのことによって、ほんとうの自分と観念との分離が生じ、ほんとうの自分が顕れてくるからです。
 クリシュナムルティは真の開放のために方法論は要らないと繰り返し言っておりましたが、唯一、この自覚すること、即ち自己凝視(自観法)だけは推薦されていました。
 つまり、自覚すること自体が「開放のさせ方」でもあるわけです。
 そして罪の意識で言えば先述の場処、他の観念なら他の場処、というように、観念から自由になったりニュートラルな関係になった時というのは、観念の集合体であるといっていい身体も必ず変化します。
 恩師の山本健二先生は「真の自己を発見すると全ての細胞が変ってしまう」と言っておりましたが、その意味でも真実だと思います。)
 
正否、罪の意識は、人にとって大事な観念です。
観念あるからこそ、人は悩み、その事によって、体や心を育み成長させる事もできるのです。
これが、以前にこの日記で書いた「苦しみ」という題名の真意です。

けれども、どんな時であっても、いつも、氣(いのち、瞑想、神)という一元は、ここにいます。
この日記を、私の死後如何なる時に読まれたとしても、
いつも、今、ここにいます。
そして、ずっといます。
そして、今までもずっといたのです。

最近、野口晴哉先生の昔の文章に触れました。
それは、体癖の違いからくる書き方こそ違っていましたが、ステファンさんやマハラジ、あるいはラマナ・マハリシと同じことを言っていました。
まさしくクリシュナムルティと野口晴哉はやはり同じことを言っていたと、感強くしました。

先生が十代の頃に書かれた全生の詩という文章があります。
今日の氣道会でも「長谷川さんにとって『全生』とは何ですか?」と尋ねられました。
多くの方は、生を全うする事を全生と言うのでしょう。
しかし、生とは何なのでしょう。
あるいは全うするとは、どういうことなのでしょうか。

そうしたこと。
私たちはそれこそ観念で捉えます。
生とは○○である。
全うするとは○○のことである。

私が今日言ったのは、今に生きることである、という言葉でした。
今、ここしか、生きていないのです。
未来も推測ですし、過去も想い出です。
ありありと映ることもあるでしょうが、だとしたら、なおさらこの今に未来も過去も含まれているのです。

そして、「今!」と認識した時は、それは過去です。
相手や自分の呼吸を同調しようとする時と同じです。
「ほんとうの今」に、あるいは今、ここに生きようと本当に思う時、
今は時間の軸から外れます。

そして氣(いのち、瞑想、純粋意識)が現れます。
(それは本当に単純な作業ですが、誰もあまり真剣に行っていないようです。
 最初は、一秒を何十分の一という、時間軸の中での微分化作業になるけれども、
  (だからこそ、私たちは速読法の訓練を推薦しています。頭がクリアでないと、思考を見つめられないのです。思考が速くならないと、逆にその狭間が認識できないのです。氣道家にとって、速読法は情報処理能力アップのためではなく、瞑想を顕すためにのみあります。)
 そうした微分化作業を行うことによって、連綿と続く「かに思える」時間の狭間が顕れだすのです。)
───そんな事を氣道会では申し上げました。
 ぜひ、今、行ってみてください。)


期待があると、今楽しくなります。
心配があると、今が苦しくなります。
そうした未来への事だけでなく、
今、家族の訃報を聞けば慟哭に打ちひしがれるでしょう。
また、現在のことだけでなく、過去に引きずられてしまうこともあるでしょう。
人として生まれ、思考あるが故に観念、エゴを持ったわけですから、仕方ありません。

而して、そうした観念をもできるだけニュートラルにし、できたら払拭し、
あるいは逆に活用して、生きたいものです。

そのためにも、ほんとうの「今」を味わっていきましょう。

どうぞ、これを今読む皆さんにとって、

「今」が十全とされますように。

野口先生の全生の詩の最後は、次の言葉で結ばれます。
そして、それは私たちが言葉としてはいつも行っている事でもあります。
ウーム
   
 「大丈夫」

(其れは大丈夫と言い聞かせる暗示ではありません。
 大丈夫という前に大丈夫が在るのです。
 つまり一元の大丈夫なのです。
 如何なる時であっても天行健であることを知った者の気合でもあるでしょう。)

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