悟った人の体

悟った人の体には特徴がある。
今日もそんな方のお体に触れさせて頂いたが(整体操法)
まず場処的に言うと明瞭なのは三つ。
ただ、ここまで書いて何なのであるが、
こうした事を書くことによって(おそらく今まで公開されていないと思うため)
余計な弊害があるのではないか、とも思った。
(知りたい方は直接口頭で聞いてほしい)
これだと、
この日記に向かった意味が無くなってしまいそうだが、
如実なのは氣。
それは違う。
そして氣は生きている人間の場合、息(呼吸)に現れる。
そのため、氣で分からぬ方であっても息で分かる。
ただ、確かにこれも言語化はしづらい。
息深く心閑か──な状態は整体の状態であるが、
理想的な整体の状態である悟った体がそうであるかというと、
確かにそうなのであるが、
その息、その心の背後にある息を観なくては分かりづらい。
(ニサルガダッタ・マハラジなどはその典型かもしれない)
その意味では、やはり氣ということになるが、
これはいわゆる気功で言うような氣というレベルではない。

となると、やはり言葉化は困難であるが、
それでも、ここまで書いた意義はあるかもしれない。
また、ノンディアリティでいう悟り、禅での悟り、ディクシャでの、ヨーガでの、
と流派によっての異なりも感ずる。
否、悟り自体への定義もあろう。
ここで私が言う悟りはクリシュナムルティの言う気づき(自己実現)の定義にしたいが、
面白いのは悟っていながら、
その後、人に戻って、記憶から消し去ろうとする事の多いことである。
(このことはステファン・ボディアンも書かれていたが、これ程とは)
そう考えると、
悟ることよりもそれを活かすことが大切なのかもしれない。
その前に、悟ることに何の意味があるだろう、とも言える。

確かに、私の立場での観察では悟った人の特徴はある。
けれども、その人の人間としてというか、
相対世界でのあり方のことのほうが、
この相対世界(つまり現実という浮世)に於ては、むしろ大切なのではないか、
とも思う。
そうしたことがあっても、
それを記憶から消し去ろうとする位、
人間の心というものは難物なのである。
そして良い意味にも使える。

“人生とは心ひとつの置きどころ”
とは、京都東福寺で申し上げた中村天風の言葉である。
昨日、愛する即興演奏家のまつけんこと松本健一に言った。
「私の尊愛する人に藤沢秀行という碁打ちがいる。
 その方と初めてあった時、日本橋の三越だったが、
 彼の「無心」という書の前で、ずっと動けなくなってしまった。
 その後しばらくして、左下に文字があったことに気づく。
 そこには、「心無し」と小さくしかも胆深く書いてあった。
 驚き、ふと振り返ったとき、藤沢秀行と目が合った」
30年以上お世話になっている成瀬雅春師も言う。
解脱した人は、そのことを言えない。
野口晴哉師は「悟り無し」とまで言う。
そう。
慧能と神秀の偈の譬え話にこそ、
すべての公案を解く鍵があるとしか思えない。
そこだ。
そして、その“そこ”は、
譬えでしか現せない正に不立文字の所以だろう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あなたはこのままでいい」
「あなたは変わることもできる」
別の意味で言っているが譬え話で無意識にアプローチした
ミルトン・H・エリクソンやオハンロン、吉本武史先生の言葉も思い出す。
そして、翻っていうなら、
“接心”とは、接することによってそれが無いことを知る時間軸の行為なのである。
それ故“心の学校”も、無い心から接する。
そうして瞑想しなくとも、それが浮かび上がる。
元よりそれ所以に。

昨日、仏の顔、木戸っちにお会いしたあと、
宮ちゃんと仲良くサンドイッチを最期に食べた者より


 


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