整体の魅力

さて、昨日の続きです。
今回は、整体指導(特に整体操法)を行う醍醐味についてお話ししていきます。
醍醐味というか、うれしさ、
整体操法を行う喜びかな。
それは、ほんとうに感ずるのです。

以下、思いつくままに列挙していきますね。
これは、昨日の【整体の学校】でも言ったことなのですが、
何より、相手の方のお体が良くなっていくことを観れる喜びですね。
それは、「あぁ、これで腰痛は完全に消失したな」というような
臨時の変動が変わった、ということでなく、
どんどんと「整体」という整った体の状態、つまり自然体、その人らしい本来の体(=心)の状態
に戻っているのが毎回、観察できることです。
臨時の変動というのは、それはしょっちゅうあるわけで、
梅雨になれば腰椎2番が右に行きやすく5番が左にいきやすく、
夏になれば、まず頸椎7番が変化し、次いで…
というように季節によっても、かなり変化するわけですし、
その人の体の波によっても変化しますし、
それは様々に、変化します。

そして、そうした臨時の変化によって、
私たちの体(=心)というものは、
どんどんと育まれ、整体の状態に戻ろうとしているわけです。
そう。
命の働き(自然治癒力)というのは、死ぬ4日前まで働いていて、
より良くなろう、より良くなろう
(つまり、整体にさらに近づこう、近づこう)
としているのです。
これって、遺伝子(DNA)的にそうなっているのだそうですね。
悪い物を食べれば吐くし、吐けない人は下痢をするし、
下痢を止められてしまったら皮膚から湿疹で出るし、等々…
そうした変化によって、
どんどんと整体に戻そうと、いつも命の働きは頑張っているわけです。
そして、その変化を通して、
さらに整体に近づいていく。

そうした整体にどんどんと近づいていく、という臨時の変化ではない、

その背後にあるといいますか、
私は“底上げ”できている、と表現することもあるのですが、
そうした安定ある確実な変化を観察できるのが、
とってもうれしいのです。

以前にも、この日記で書いたように、
毎月1〜数回、整体指導を受けにいらっしゃる方は、
定期的ですから、こちらも臨時の変化と共に、
その根本的な変化を観察できるわけです。
そして、ほんとうに“底上げ”されているな、
もう、以前の体(心)には戻らない、
そりゃ、疲れた時には、またここに痛みがくるだろうが、
それはごくまれで、もうこの人の構造自体が変わったからここにはきにくい、
など、深い、確かな変化、
つまり、どんどんと、その人の本来の体、つまり整体の状態に帰っていくのを観れるのは、
ほんとうに嬉しい。
(そのために関西に行っていると行ってもいい。
 だって、交通費+宿泊費+飲み代を引くと、ほぼ○○ですからね。←飲み代が多いんだよ(と影の声)(^^;;
 でも、本当のこと。
 この嬉しさは、特に今年になってからですが、

 継続は力なり、以上に、受けられる方の自分の体を育んでいこう、というお気持ちもあるのだろうな、と実感しています)

整体操法をさせてもらう嬉しさについて列挙する、
といいながら、つい一つ目で長くなってしまいました。

二つ目は、昨日書いた「受けることの魅力」の裏返しです。

 つまり、相手の方が実に変化する。
 私はただ、観察し、手を当てているだけですのにね。
 しかも、たった数分間。
 それも、良くしようと思わず、ポカンとしていたほうが結果として効く。
 何という仕事でありましょうか。
そう、そういう「手」に対して、私は自分の体の一部とはいえ、
 ほんとうに有難いな、と思っている、ということを昨日も申し上げました。
 ラフマニノフというピアニスト(作曲家でもありますが)の亡くなる時の最期の言葉ではありませんが、

 私も同じ気持ちがあります。
 自分の気になるところに、ふっと手がいく。
 そうした本能を人間だけが持っているわけですが(猫だと舐める)
 さらに人間は、相手の方にも、ふっと手がいく。背中をさすってあげたり、押さえてあげたり。
 つまり、人間は自分だけでなく、他人をも、手によって癒すことができる『本能』を持っているというわけです。
 もちろん研鑚された方の手は、さらに氣の流通が良い手にはなっていますが、
 それ故、自分の体調や心調がそのままダイレクトに伝わりやすいし、反対に良い意味で受けやすくもなるので、
 自身の身心を整体にしていくための精進というか、
 さらに自分の命の働きに則していくことをする必要はあるかとは思いますが、
 ともあれ、手当てというのは人間の本能的な行為であり、
 しかも、どんどんと育っていく。

 どんどん効果が増していく。
 効果が増していくのは、手当てをする側からの影響力だけではなく、
 受ける側も、手当てをされればされるほどに、体が敏感になり、整体に戻っていきやすくなる。整体に近づいていく。
 ギューギュー押さえられる物理的な力だと、
 もっと強く押さえてもらわないと効かなくなるけど、
 愉氣、手当ては、その反対にどんどんと感受性がましていき、
 受ければ受けるほどに効果が増していく。
 そして、行う側も、行えば行うほどに手が拓いていき、
 より愉氣が手を通して行いやすくなる。
 だから、家族や近しい方々と、手当てをし合うと良いのですよ、と常々言っているのです。
 私たちプロは、さらに効果を高めるための急処を観察し、調律、調整していきますが、
 (そう、調律なのです。
  そして、楽器と違い、私たち人間は生きていますから(楽器も生きていると思いますが)、
  その命の働きにって、自分の体や心を調整、調律しているわけです。
  私たちはそれをただ援助しているだけ。
  ミルトン・H・エリクソンではないけど、相手の方の無意識、命の力こそが、どこに進んだら良いのかを知っているのです)

 プロでなくとも、ただ手を当てるだけで勝手にそうなっていく。
 そういう力を私たち人間は本能的に持っているというのは、
 人の本質は善であると言わざるを得ないのではないか、と思っています。
 野口晴哉師は、人間だけが他の哺乳類に比べて13ヶ月〜15ヶ月早く生まれている、
 他の哺乳類だとすぐに立てるのに、人間はその期間、世話しなくてはならない、
 人の本質が善である証拠でもあろう、
 と言っておりましたが、私は、手当てという人間だけが持つ本能行為にも、それを感じるのです。
ともあれ、整体操法を受ける方々の体自体が変わることは何よりのうれしさで、(あら、最初に戻っている…)
 昨日は、受ける醍醐味について書きましたが、
 「こんなに元気になりました!」

 「ほんとうに良くなりました!」

 「お蔭さまです。うれしいです!」
 と、昨日も有難いお言葉をいただきましたが、
 いえいえ、ほんとうに違うのですよ。
 そのように人間は作られているのです。


 20年位前、スタッフの○さんが「整体指導をさせて頂く喜びは、相手の方が喜んでくれる顔を見ることです」と言っていたので、
 「おいおい、それは違うだろ。顔は意識だ。それよりも、相手の体が本当に喜んでいるか観察したかい」
 などと偉そうに言ったことがありますが、
 いやいや、
 ほんと、ほんとに、それがうれしい。(あぁ、また最初に戻ってる…)
あとは、昨日も言ったように、何度も救われました。
 整体操法(手当て)という仕事を行っていなかったら、

 今、私はこの世には絶対にいないです。(←いなければ良いのに、という影の声あり)
 自殺しよう、と思ったときでも、

 いえ自殺さえできずにただ真っ暗なまま体を引きずるしかないときであっても、
 自分よりも辛い人に対峙し、否、自分よりもたとえ辛くなかったとしても、相手の方に対峙し真剣に向かわざるを得ないひとときによって、何度、命を救われたことか。
 これも人間の本能のなせるわざでしょうか。
 人に、できるだけ天心で向かおうと、愉氣しようとすると、結果として自分までが元気に整体に近づいていく。
そう、そこまで深刻なときでなくとも、
 人に手を当てる、愉氣をする、
 それだけで、どんどんと元気になっていく。元気に、整体に戻っていく。
 ほんとうに有難いと思います。
きっと、昨日はもっとお話ししたかもしれない。
 「これ以外にも、いっぱいあります」とも言ったような。
 それは、ちょうど、昨日の日記に書いたように、ほんとうにそれ以外のことが際限なくいっぱいあるから。
 でも、今日は、具体的なことが思いつきません。
 もちろん、たくさんたくさんあります。
 そう、”息一つになり相手の領域を共有する喜び” とか、
 そうですね、急性病で苦しんでいる家族や近しい方の脈や呼吸を観察して、
 「これは風邪だよ。あと○日で抜けるよ」と言えるとか、
 そうした細かいことはたしかに数多くありますが、
 そんなことよりも、上記のことではないかなぁ。
 つまり、人に手を当てるということは、自他共に整体に戻す、命の働きを十全とさせていく行為である、ということ。
 自動運動を一人で行うのも良し。
 二人で行えばさらに良し。
 座禅、瞑想も然り。
 手当てを受けるというのと、手当てをするという、
 受け手と行い手は、確かに真逆なのだけれども、
 その双方によって、初めて成り立つ世界があるのではないかな、
 それが人間の本能から導かれているのではないかな、
 と思う者です。
  

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

 ここまで書いて、
 ぜひ皆さまにも、そうした「手当て」、「愉氣」、
 その延長である「整体操法」の技術をお伝えしたく改めて思っています。
 (お伝えするというと横柄な言葉ですが、自分の役割、自分の存在意義を感じてしまって)
 そう。
 私たちは、自分や、
 相手の体(=心)を整体という状態に戻す、
  (これを“体を育む”(=真の体育)と言っています)
 ことだけをお伝えしたく

 『氣道』をお伝えしています。
  (これを「整体プロジェクト」とも言っています)
 そして、その方法は愉氣。
  (愉氣とは気持ちを向けること。
   それだけで全てが変わる。
   私たちが何より大切にしている【心の学校】も、愉氣だけで行っています。
   その意味では『愉氣』という言葉もぜひ知ってほしいし、実践してほしいので、
   これを「愉氣プロジェクト」と呼んでいます。
   「愉氣プロジェクト」を通して→「整体プロジェクト」につながるという形です)

 その意味でも、整体、つまり氣道に少しでもご関心のあられる方は、ぜひ、
 【心の学校】や【整体の学校】にご参加してくださったらと思っています。
  (【心の学校】は自分を整体にするスキルも身につける講座。
   【整体の学校】は相手の方を整体にスキルを身につける講座です)


 けれども、
 その前に、
 まずは、今日から、(無理なら明日から)
 自分の体の気になる処に手を当ててください。
 そして、そこに気持ちを向けてください。(=愉氣)
 もし、近くにどなたか(ご家族とか)いらっしゃったら、
 それを相手の方になさってください。
 できたら、毎日でなくとも、数日とか一週間に一回、
 そうですね。最初の三回はできるだけ短いスパンで行ってみてください。
 時間は、5分でも、いえ、数十秒でもいいです。
 量より質、時間より深さですから。
 どれだけ余分な想いを入れずにポカンとできるか。
 ポカンとしたままただ手に気持ちを集めればいいのです。

 同じ阿呆なら踊らにゃ損、だそうです。
 お読みになるだけでなく、
 ぜひ試してください。
 効果は保証します。
 
 その上で、疑問点、苦情、あるいはもっと学んでみたいと思ったら、
 ぜひ上述の学校で,ぜひお会いしたく思っています。
 そう書くと手前味噌のようで申し訳ないのですが、
  私もいつまで上記の学校を行えるのか、現在のところ自信がありませんので。
  先に書いた「整体プロジェクト」

 「愉氣プロジェクト」は、一生涯、私の使命として続けていきたいことなのですが、
  私も一個人として組織に属している身でありますので、
  たとえば次の【整体の学校】は2019年9月から開始なので、もしかしたら最後かもなぁ、と思っています。

  (初等までの「整体の学校」は早稲田大学を含めて来年以降も行っていきたくは思っています)


  何よりお伝えしたい【心の学校】は2019年8月と、あとは年末に行えます(死ぬまでずっと行いたいです。いえそのまま死にたいくらい)
  まぁ、いつも最後のつもりで、楽しくも懸命に顔晴っていますので、それは同じなのですが。(^^)

 ともかくともかく、
 まずは、ご自身で、そして身近な方に試してください!
 
 それだけでもほんとうに変わりますよ!
 そして、実感できたら他の方にお伝えしてあげてくださいね。
  (それこそ「愉氣プロジェクト」→「整体プロジェクト」なので!)

 
 



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