愉氣だけで、心を空っぽにできる。そして、なりたい自分にもなれる。

(この記事は、スタッフ(永井)が代理で投稿しています)

 

愉氣とは、気持ちを向けること。

気持ちを向けるというのは、日常で誰もが行っていることです。

 

けれども、ある意味では大変というか、トレーニングが必要なのです。

子供の頃は、つい気持ちが集まっていて、時間を忘れて遊びに熱中してしまったりしますよね。

それが大人になってくると、そこまで我を忘れて自然に集中してしまうことは少なくなっていますよね。

 

 

そして、子供の頃であっても、思わず「無意識的に」集中してしまうのであって、

意識して「これに集中しよう」としていることは少ないでしょう。

 

つまり、「意図的に気持ちを集める」ということは、あまりしたことがない人が多いと思うのです。

しかも、気持ちを向けるときにはなるべく純粋でまざりものがないほうがいいですから、

力んだりしまいほうがいいし、観念やフレーム、思考や感情が入ったりしないほうがいい。

まして、リラックスしたまま集中するとか、ポカンとしたまま集中するとなると、

なおのことあまりしたことがない人が多いと思うのです。

 

 

そういう愉氣の練習を、私たちは「心の学校」の中で徹底的に行っています。

楽に、そして楽しみながら。

 

――というか、「心の学校」の中で練習するのは、全部愉氣ばっかりなのです。

ですから、「心の学校」のことを、別名「愉氣の学校」とも呼んでいます。

 

 

たとえば、なんの変哲もない石に、意識的に気持ちを集めるなんて、したことないでしょう?

そういうことをトレーニングするのですが、すると飛躍的に集中力が深まります。

 

しかも、リラックスすればするほど集中できるようになる。

それだけでなく、気持ちの切り替えが非常に簡単になっていく。

 

そして、この愉氣の練習ばかりしていると、

ヨーガでも、集中(愉氣)つまりダーラナーの次は、ディアーナつまり瞑想、と言われているように、

集中ができるようになると、そのまま瞑想状態が、瞑想が顕れるのです。

 

 

たとえば丹田に集中、愉氣をクリアにすると、自分が丹田になるのです。

石に愉氣をすれば、自分と石との分離が無くなり、石になれる。

この人がこの人に愉氣をすると、氣の感応で響きあう、共鳴しあう。

 

でももっと愉氣をしていくとその人になったような感じになって、一瞬そっちにいっちゃう。

一秒でも、 0.5秒でも。

 

これがクリシュナムルティの言う、観察者と被観察者の分離の無くなった世界です。

観察者の無くなった世界。反対に言えば、普段の見方は思考が働いていて、

見ている対象と自分との分離がある。

 

 そして、さらに行い続けると、空間、ポカンとした静けさが顕れてくる。

ですから愉氣(集中)と瞑想は、分離していない。

――というか、瞑想には愉氣がどうしても不可欠になってくる。

 

 

さて、話を愉氣に戻すと、愉氣は外だけでなく、自分の内側にもできます。何にでもできる。

ですから思考や感情にもできる。

 

たとえば気になることがあったとして、その事柄を分析したり自分の外側に捉えるのではなく、

その「気になる感じ」が自分の体、感覚的な身体のどこにあるかな?と感じてみる。

体のどこに響くか、どこに感じるのだろう、と。

そして、それに愉氣をするのです。

 

慣れてくると、短い時間で、シャーベットが溶けるように瞬時に無くなってしまいます。

このやり方で、自分の観念、感情、フレームも全部クリーニングできるのです。

これは歴史上最大の発見かもしれない。少し大袈裟ですが……。

 

 

しかし、そのように、体感を通して心(潜在意識)がクリーニングされて

空っぽに近づいていくと、どういうことが起きると思いますか?

 

そう、心が空っぽの状態になっていく。自然と瞑想状態に近づいてしまう。

愉氣しなくともね。

 

これは、コンピューターでいえば、入っていたソフトをアンインストールしているようなものです。

コンピューターだと、ソフトが完全にアンインストールされると動かなくなってしまいますが、

人間の場合はどうなるか?

 

思考や感情、そしてそれを創り出しているソフトがクリーニングされても、

先にいった「命」、タオの働きが残るのです。

というか、その元々の氣が十全に顕れる。

――これが本当の私です。

 

「心の学校」の前半では、それを三日間かけて行っていきます。

たった三日間ですが、何十年もの修行によっても得られなかったものが得られた方は、

枚挙に暇がありません。

 

その結果、体としてはポカンとできるというか、ポカンそのものになったわけですから、

「水落」は完全に弛んでいます。

というか、全身の細胞が一新します。

その顕れとして、“水落”は完全に”抜けて“いる。

 

心は、風です。もちろん体も。

ですからこの「心の学校」の前半のことを”風の学校“と呼んでいるのです。

 

そうして、本当の自分に戻った状態は、絶対世界(0)そのものになった、

生きながら死んだ状態ともいえます。

 

 

そして、今度は再生です。

命、タオの状態から、この相対世界(1)の世界を自在に生きるため、

好きな思考や感情、観念というソフトを自由にインストールするトレーニングを、

それこそ楽しく行っていきます。

 

現実創造力、夢実現力が、飛躍的どころかあり得ない程に培われます。

 

体の面の変化は、一言でいえば生き生きします。

前半が瞑想、心の断食だとしたら、ここで復食。

 

インストールだから、というだけでなく、

「自由に人生を選べるんだ。創れるんだ」という潜在意識、体の産ぶ声が聞こえてくるかのようです。

――そう、再生、新生なのですから。

 

そしてその結果として、”丹田“の弾力が回復してくるのです。

まさに生まれたての赤ん坊が下腹で大きく息をしているように。

 

この新生の旅は一日半かけて行います。

仏教やミルトン・H・エリクソンはもちろんですが、

願望実現法研究四十数年感の結晶として、夢を叶える方法を”技術“としてお伝えしていいます。

そのため、この「心の学校」の後半を”夢の学校“と呼んでいます。

 

 

全て「愉氣」だけで行っていきます。そして、それだけで十分なのです。

道具も何も要りません。

愉氣だけで、クリーニングもクリエイトもできる。

 

そして、愉氣というのは、人間にしかできないこと。

人間は、つい愉氣、つまり気持ちを向けると思考が混じってしまいますが、

それが簡単な練習によって、思考を静めて気持ちだけ、そう氣だけ向けることができると、

ほんとうに人生が楽になるのです。そして楽しくもすることができる。

 

そして、私たちの中に潜在していた能力や個性、体力が十全に発露していきます。

その意味では、愉氣の可能性は人間の可能性である、といってもいいでしょう。

愉氣とは、ただ「気持ちを向けること」。

それが、「人生を拓く鍵」なのです。

 

私の仕事は、この愉氣――ただ気持ちを向けること――の計り知れない大切さ、

そして素晴らしさを、多くの方に知って頂きたい、ということです。

 

「感情は、その人の観念から生ずる」とは、心理学の本だけでなく、よく言われていることです。

しかし、思考の前に、言葉の前に、氣があります。

気持ち、愉氣があります。

 

そして、その愉氣によって、思考や感情もクリーニングすることができる。

反対に、言葉を伴い、クリエイトすることもできる。

 

――そうした、気持ち(愉氣)の素晴らしさ、大切さを、

一人でも多くの方に知ってほしく、仕事を続けています。

 

その「愉氣」を磨き、「氣道」の神髄を味わうことができるのが、【心の学校】。

 

この人生を十全に輝かせるため、少しでも早く味わって頂けることを願っております。

 

(長谷川 淨潤)



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